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無知ではあるが蒙昧ではない我々が起こすべき革命

信じるだけの日々からの脱出

私は無学だ。そして無教養だ。粛々と今を生き、自分と家族と、できれば世界の多くの人たちの幸せを望んでいる。
そんな私を中世ヨーロッパの庶民に例える。

庶民は日々懸命に働きながら、神に仕える聖職者にこの世の理と正しさを学んでいる。
庶民は神の声を聞くことができない。
何故なら神の声なる聖書は知らない言葉で書かれており、しかも貴重で手に入らないからだ。だから庶民は聖職者の言うことを信じて生きるしかない。

しかしある日、活版印刷とやらのおかげで聖書を手にすることができた。
しかもその聖書は、自分の知っている言葉で書かれている。
文字を学び、繰り返し読めば、聖書を知り、神の声を聞くことができる。
そして気づく。
敬愛してやまない聖職者たちの教えが聖書にないことを。
彼らは嘘をついていたのだと。


望めば事実に手が届く。

言うまでもなく、これは宗教改革の始まりの物語。
ルターが免罪符を配って庶民から金を集めていた教皇らを懐疑的に思い、そして庶民も自ら神と対話できるよう聖書をドイツ語に翻訳し、印刷された聖書が庶民の手に渡ったくだりだ。
 
私は特に信仰を持たないので、キリスト教の内紛にはあまり興味はない。
私が言いたいのは、私たちはいまだ中世の庶民と同じようなものだということ。テレビで雑誌で、インターネットニュースでも、公の情報や専門家が語る言葉を信じて、それを常識として暮らしている。彼らは賢者であり、我々は無知な愚者だからだ。賢者の声を聞き従うものだけが、賢者に近い準賢者になれると考えるからだ。聖職者の言葉を信じて疑わない敬虔な中世の庶民のように。

しかし、今私たちに上から投げ与えられる情報は、本当に正しいのか?
「あなたたちを救うため」と免罪符を売りつける彼らは、真実を語っているのか?
 
「インターネットの情報なんて嘘ばかりだよ。正しい情報は政府や大手メディアやから発信されるんだ」
 
開けてはいけないパンドラの箱。
手にしちゃいけないドイツ語の聖書。


私たちは今、世界の果ての情報にアクセスでき、知らない人たちと直接対話し、そして知らない言葉を知っている言葉に翻訳する装置を持っている。

その装置に文字を打って、その先にあるものを確かめてみることを億劫がっていては、いつまでも免罪符を買い続けることになるのだ。

嘘も真実も混じった情報の海で。

Googleで検索しても、Twitterをさまよっても、そこに真実が書かれているかはわからない。
しかし、私たちに上からばら撒かれる情報の矛盾を見つけることはできる。

「今日のロサンゼルスは快晴です」と日本のテレビが言ったとして、それが本当か(もしくはどれほど真実に近いか)を確かめることができる。

「とある街が崩壊している」という写真が、本当にその街のものか調べることができる。

 
もちろん自分が手にした情報がいつでも正しいわけじゃない。
でも調べて、考えて、また調べて。
多くの人に話を聞いて。
誤解して謝って、また調べて。
 
ようやく答えにたどり着く。
彼らは嘘をついていたのだと。

でも絶望はしない。
私たちは知る自由を手に入れた。
それなりに邪魔されるけれど、それもモンスターと戦うイベントみたいなものだ。

電子の海、情報のダンジョンをめぐる冒険の果てにあるのは、リアルワールドで生きる無知な庶民である我々が、不誠実な賢者たちのつく嘘を打ち砕く革命だと、私は思うのだ。
 
このnoteをその記録にしていけたらいいなと思っている。

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