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古い琴  ―老女のひとりごと(9)

 夫を見送り、一人暮らしにも慣れたこの頃は、昔のことがしきりと思い出されてくる。

 昭和40年代半ば頃、私は自分でも呆れるほど、お琴を教えることに夢中になっていた。その頃のことを思い出すたび、なぜか我が身がいとおしくなる。

 千葉の某会社のサークルにも、マイカーで出稽古をしていた。私への謝礼は会社持ちなので、お弟子は無料。だから人数も結構増えたのである。習い始めると家での練習用にお琴が欲しくなる。気軽に習うお弟子は気軽に買える古いお琴がいいと言う。サークル指導に舞い上がっていた私は、古いお琴をどうしても見つけてあげたくなったのだ。

 その頃は、新聞に「売ります買います」の欄があった。何気なく新聞を見ていた頃はよく見つかったのに、いざ探すとなると「お琴売ります」は中々載らなかった。

 しばらくして「お琴買います」が載った。都合のよい話は、おいそれとあるはずがない。でも私は、こんな時ほどせっかちになる。「お琴買います」の人に電話をしてみたのだ。もしかしたら、複数の人から電話があったのではないか――と。

 その通りだった――、その人には四件も電話がかかっていたのである。丁寧にこちらの事情を話したら、二件は遠いからと電話番号を教えてくれた。一つは何と葉山、お琴は二面あると言う。素人同士だから、すぐに気が変るかもしれない。早い方がよいと思い、夫にわけを話して、その日の午後愛車で葉山まで突っ走ったのだ。

 一つはガタガタだったが、二面とも買った。助手席を倒すと、琴は四面載せられる。もう一件は横浜の近くだった。後で琴屋さんに頼んで、痛んだ所を修理して糸を替えてもらった。

 しばらくして、売り手を譲ってくれた人にお礼の電話をしたら、その人は迷っているうちに相手の方から断られて、二件ともおじゃんになってしまったとのこと。

 弟子たちは大喜び。私はすっかり未知のスリルに酔ってしまった。それに私の所にも余分の琴はあった方がよい。だから私は情報が入るたびに走った。景気の良い頃だったので、古い物を処分する人が多かったのだろう。だが、象牙の柱付きの琴の時は迷ってしまった。中古品は、何より安さが魅力なのだ。でも、結局私は自分用に買ってしまった。

 こういうことにも時代が反映するのか、二、三年したらパタリと「お琴売ります」は載らなくなってしまった。だが幸いなことに、お弟子たちの懐(ふところ)も気持ちも豊かになってきて、みな新しいお琴が買えるようになっていたのである。

 お琴が縁で親友となった人がある。

 彼女もお琴を譲ると新聞に希望を出していた。訪ねて行くと、いきなり「お琴は差し上げます」と言う。若い彼女はお茶とお花を教え、お習字は両国の弥勒寺の住職を師とたのみ、サークルを作っていた。その先生のツテで一流の書家に掛け軸を書いて頂いたので、近々自宅でお礼の宴をと考えている時だったのである。

 すてきなお庭のある家で、ご馳走の後お茶も一服差し上げたいと思い、それにはお琴の演奏が欲しい、使わなくなったお琴を譲る人に当日弾いてもらえたらと、そんな期待で希望を出したのだと言う。なぜか気が合い、「当日ぜひ琴を弾いてほしい」と私は頼まれてしまった。

 帰ってから夫に話したら、私以上に感激した夫は、「近頃にない美しい話だね。それにしても、おばさんの下手な琴だけではさえないから、よかったら娘の日舞もお見せしたら」と言う。

 娘は高二で坂東流の名を取り、その時は大学生になっていた。お小遣いを出してその気にさせ、「松の緑」を踊らせた。

 おばさんの琴はその通りなさけなかったが、娘はすっかり気に入られてしまった。その秋のおさらい会に「たけくらべ」を踊ることになっていたが、何と琴をくれた彼女の先生は樋口一葉を研究なさっていたのである。以来、娘の会にはいつも来てくださった。

 そして、あきれたことに、暇のない私がいつも間にか、彼女のお習字のサークルに入っていたのである。

                                 1993.5

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