タンブルウィード



いろんな楽しみ方がある。祭りもプロレスもライブも。演者も裏方も観客もありとあらゆる目線、内包するドラマがある。それは人の数だけ。まるで田舎で見上げる星空のようにドラマがある。


大病を患ってからできること、できないことが常に線引きされる生活になった。抗がん剤投与日とその後3日間は痺れや倦怠感との付き合い。器用ではない自分はその生活に流されるように時間を過ごしていた。砂漠に転がるタンブルウィードみたいに。


仕事を休んでいる今、生活に時間割がない。こなさなくてはいけない作業がぽっかり抜けてしまった。通勤もない。気遣いもない。厳しいスケジュールを縫う時間や体力のやりくりもない。イカれたヤツを上手にやる気にさせたりする面倒な作業も一切ないのだ。今の自分には。


人としてやるべきことは健康に気をつけること、可能な限りのリハビリといったところだ。この期間に人と会わない時間の寂しさを文章に転換し紛らわすことを覚えた。


ひとりでいる時間は常に自己完結だ。好きなことができるし、好きなメニューをチョイスできる。時間だって何時だっていい。けれどそれは孤独な中年の1日をライブ配信するYouTubeと一緒だ。編集の一切ない垂れ流し系の。本来人間というのはこころという大気圏内に侵入してくる文化や人々との接触こそが刺激となり、動機となる。生きがいとなる。脱皮を促す触媒が必要だ。


4月7日。サンボマスター森のホール。退院してからこの日を待ち侘びていた。ライブハウスはこなせる体力が計算できなかったのでチケットを譲ることにした。チケット発券日。割り当てられた座席を見てひっくり返った。最前列。嬉しさと同量の不安が全身を駆け巡っていた。ある程度座りながらのつもりが座りづらい最前である。その日を迎えるにあたって2つ策を講じた。ヘルプマークをつけて臨むこと。もう一つが1000円のユンケルをドーピングする、である。


当日。「ザ・バース・オブ・ジ・オデッセイ」が流れると視界がより鮮明になる。色が鮮やかに感じられ、いつもより視力が戻ってくる。細胞がサンボマスターを全力で取り込むんだ!と全身に命令を下している。それは人間に本来搭載されている最大公約数のプログラム「生きろ!」だ。本能だ。本能。


サンボマスターのライブでおそらく初めてシラフで臨んだこの日。耳をつんざく爆音。大病を告げられた瞬間からこの日を迎えるまでの時間が走馬灯のように乱反射していく。思い・想い。後頭部から脊髄を光速で何かが駆け抜けいく。


音楽の聴き方はひとの数だけあるのだろう。アドレナリンを逆噴射して人間ロケットのように飛びたいヤツ。シャーマンみたいにひとを煽って儀式のような輪を紡ぎ出すヤツ。一見仏像のように思慮深く泰然と聞き及んでいるが内面の炎は天井を貫くほど熱いヤツ。目が宮本浩次になってるヤツ。駄菓子屋で売ってるカラフルなビー玉みたいな目ではしゃぐプリティな子供たち。


この日の自分は深く深く自分という深海の中にダイブしているようだった。サンボマスターの楽曲を触媒に錆びついちまったものたちを蘇らせたい、その一心だった。彼らの楽曲は信用できる。喜怒哀楽が作品ひとつひとつに込められている。楽しいだけじゃない。体力のアクセル全開そんなもんじゃあの妙味は出せない。伏線回収みたいなロックじゃない。老若男女にちゃんときっかけがある。きっとオーディエンスひとりひとり違うドラマがあるはずなんだ。胸の奥深くにそっと輝いている物語にそっとアクセスする、そんなバンドなんじゃないかと思うんだ。


爆音のロックンロール イズ ノットデッド。震えるほどの夜を超えて。本当の君に逢いたい。本当の君が今世界で一番の光を放つんだよ。心の中にかくれた本当の僕よ目覚めろよ。言葉にできないあのキズに決着をつけるため強くなろう。生きてみたいから生きてみたい。死んで花実など咲くものかよ。ケチな定めの僕にだって光が降り注ぐってのかい?さだめに逆らう旅に出てさびしさつのる夜を過ごす。それでもあなたを思わせてくれ。涙のワケが毎日をかえるよ。ロックンロール イズ ノットデッド。


深海の底にいた気持ちが唸った。オレは猛烈に生きてぇ。へその辺りから食道、喉を経て震えるような何かがメリメリと音を立てて唸った。これだ。こういうヤツだ。激情で織ったペルシャ絨毯みたいなさ。自分の出会いたかった気持ちがドット絵になるまでボルテージを溜め込んでさ。それを形にするためのサンボマスターの爆音。


今日もこの文章を綴りながらあの日のロックを反芻している。イヤホンから脊髄を駆け巡る音符。あの日の景色と折り重なって瞬く極上のロックンロール イズ ノットデッド。




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