どこにも行けないドア


先日東京ドームで行われた井上尚弥vsネリの統一戦。自分は翌日に通院を控えていた。前回撮ったCTの結果が判明する。一抹の不安を拭えず、臆病風に吹かれている背中を押して欲しかった。勇気が欲しかった。


1ラウンド早々井上尚弥がマットに倒れる。マジか。観たことのない光景。無敵のチャンピオンが全てを失うかもしれない。だが彼は冷静だった。あの瞬間ドームにいた4万人の中で彼1人だけが冷静だった。イメージトレーニングで会得した8カウントまで呼吸を整える、を実行。立ち上がった後クリンチを経て、ネリの猛攻に立ち向かったのだ。


まだダメージが残っているであろう状態なのに平然と死線を踏み越えた。ロープ際に追い詰められたままネリと真正面から撃ち合いはじめている。その時思った。このひとは安全な試合をチョイスする自分を一切排除している。排除できるほどのトレーニングを積んできてる。フィジカルは元より。極めて純粋な炎を纏うメンタルを貫き、キープし、それほどまでの研鑽を積んできているのだと。


なんてすごい男だ。テイスト、色は違うがあれは矢吹丈が纏う炎だ。


試合後勝ち名乗りを上げる井上尚弥を観て思った。彼は利己的な選手ではなく、利他的なメンタルを持ち合わせているのだと。だから100以上頑張れる。燃えるための触媒、その分母がたくさんあるのだから。そしてその分母にとんでもない数の分子をギフトする。利己的な自分なら100しか頑張れない。彼は違う。ものが違う。彼が目指している本当のボクシングスタイルはグローブで相手を打ちのめすことではない。観るもの全てのこころを撃ち抜きたい。まさしくあれがスーパースターというヤツだ。そう思った。


CTの結果にどこか怯えている自分を恥じた。彼の勇敢さが眩しく思えた。思えば体調不良で訪れた病院での診断結果を打ち明けられた時。あの時の重力が何倍にも感じられた瞬間。


今の病院にお世話になることが決まり、最初の面談。重い病状を突きつけられた時の記憶。絶望のドアが開いた。自分にとってはどこにも行けないドアに身を投じた気がした。自分らしさを剥ぎ取られていく感じがした。


でも井上尚弥の命懸けを観た。影響を受けた。我に還った。あの日の絶望に比べればもう何が来ても耐性はついているじゃないか。自分は絶望の感覚を知っている。絶望が広がる舌の味を知っている。


それからは開き直れた。よく眠れたし、病院の待合室で呼ばれるのを待っている間、今まででいちばん無風でいられた。泰然自若とは言わないまでも、その尻尾を初めて掴めた気がした。


番号が呼ばれ、診察室に入る。打ち明けられた状態は想定より良好だった。がんはがんで体内にあるけれど、小さくなっていた。入院前に見たCTの素人目にもわかる厳しい局面からはずいぶん潮が引いていた。
抗がん剤は効いていた。もし効果が思ったより見込めず、命のカウントダウンを告げられたらどうしよう。その恐怖がずっと頭の片隅にこびりついていた。体が安堵した。纏っていた重力が霧散した。まだ生きていられるんだと。


散歩しているといろんな気持ちが浮かんでは消え、風に吹かれてゆく。もっと生きていたいのは自分の生存欲求だ。けれど、生きていたい欲の先にある枝葉は誰かを喜ばせたり、うれしい時間を過ごしたい一心なのだ。その風景こそが今の夢であり生き甲斐なのだと思う。もっともっと姪っ子たちのサンタクロースをやっていたい。猫を撫でたい。美味しいものを食べて大事なひとと笑顔を共有したい。


極めて利己的で自己完結型だと思い込んでいた自分はどこにも行けないドアを開けて以来、そんなのどうでもよくなっていた。利他的でいられればどこにでも行ける。思える。気持ちをキープできる。どこでもドアは自分の気持ち次第でどこにだって存在しうる。喜ばせたい大切な誰かがいる。免疫力は自分の味方をしてくれていた。お前、まだ成し遂げることがいっぱいあるだろうと。がんが放つパンチに背中を見せるなとあの日の井上尚弥の生き様がそう言っていた。




ボクたちはたくさんのさびしさ悲しさ
抱きしめたけど 今日から変わるの

サンボマスター・花束。




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