コノユビトマレ
先日フジロックで行われたスガシカオのライブを観た。彼は既に50代。モラトリアムなねっとりファンクがキレッキレだったあの頃とは違い、ちょっと枯れていた。声量もキーも動きもビジュアルも。だがそれが年輪となって色気になる。ファンクを奏でているけれど全身からとてつもなくロックが迸っていた。
思えば。常時150キロ投げられるピッチャーが150キロ投げる球より、村田兆治がOB戦で見せる140キロ。僕はそっちの方が好きだった。より漫画的なロマンがある。トップアスリートのせめぎあいとしての野球も魅力的だが、僕は水島新司的な世界観のが大好物だ。
元気を触媒に放射するフルスロットルではなく。人生その全てをベットしちまうような瞬間。尋常ならざる気迫が見たいのだ。ロマン汁が。フジロックで投げるシカオの球は150キロでなくなっていた。けれど我々に届けようとするものはむしろ昔より彩りが増し、説得力と枯れていく色気がマシマシだった。
我々に置き換えてみたらどうだろう。
「パーティーが終わって、中年が始まる」という本が話題になった。追い風のような若さが40過ぎると微風に変わる。等身大の自分と向き合わざるを得なくなる。ハイになることでどうにかやり過ごしてきたタスクが向かい風になっていく。すっぴんの自分。
ハレとケ。休日にボルテージを上げまくってカタルシスをぶちまける。そんな過ごし方では40過ぎたら肩を壊す。もっとハイに。もっともっとハイに。150キロ投げたい。155キロ投げたい。もっと。もっともっと。ハレの自分こそが自分であり、主人公の自分だ。なんてプレースタイルではこころの肩を壊す。
充電する時間。ケにこころを委ねる時間が増える。ケの過ごし方に目を向けるようになっていく。等身大の自分。界王拳使っていないリアルな自分。試合後野球選手がマッサージを施すように。ゲームのキャラクターがライフを回復させるように。猫が寝ている子供に寄り添ってゴロゴロするように。純喫茶で飲む氷に薄まらないアイスコーヒーを嗜むように。
自立とは依存先を増やすこと。それは言い換えれば上質なケの分母をたくさん持っていることなんだと思う。きっとそれらは本番でより良いパフォーマンスを発揮できうるベンチマークになるはずだ。
ラーメン屋が丁寧な仕込みするみたいに。陸上選手がじっくりとストレッチに時間をかけるように。サバンナのライオンがほとんど寝て過ごすように。ドラマーがライブに向けてジョギングしたり。
日々各々が素晴らしいケを携えてハレの日を迎える。その時若さという追い風が止んだからこそ滲み出る色気があるはずなんだ。その人が様々な喜怒哀楽を経て放射しようとする気迫。乱反射するその人の年輪。きっと車なら素敵なエキゾーストノートを奏でているはず。
スガシカオが奏でる枯れながらのフルスロットル。ファンクなんだけどキレッキレのロックンローラーに見えた。あれは歌う村田兆治が如く。
よいハレを迎えるために僕らは緩んでいこう。ハレの日、こころの弦をピンピンに張るために。コーヒーに合うバスクチーズで頭の中をいっぱいにしよう。甥っ子の笑顔のために財布の紐じゃないものまで緩めよう。会いたい人に会いにいこう。すっぴんの自分になれる人に。猫を撫でよう。世界平和のために。オムライスに使うバターの量を増やそう。はじまりの日を迎えるために。
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