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チェーンソーが要る、失う為に。

No Funにフルーティストとして加入しました。



No Funは京都を拠点として全国を縦横無尽に活動する8人編成のバンドです。今回僕が加入することで9人編成のバンドとなりました。No Funのジャンルを一言で言うことは難しいので、まだ見届けたことのない人は是非何かしらの手段で聴いて、感じて欲しいと思います。


No Funは個人的に大好きな音楽集団であったことに加え、何より秋さん(内田秋:No FunのVo,Gt)は僕たちの世代からすると明らかに格好の良すぎる、筋の通った表現者であったので、その人に「清水に入ってほしい」と誘ってもらえたのは本当に嬉しいことでした。



個人的な観点になるのですが、No Funは個性と個性のぶつかり合いを経ることで、感性に不必要な無駄を削り、また、その最中で生まれる、感性に不可欠な"無駄"を愛することで、既存の価値観に縛られることのない新たな価値を生み出すことの出来る数少ない集団だと思っていて。



当たり前のことではありますが、今の時代において表現を行うのに人数の多少は関係なく、1人が作り出せる素晴らしい表現は確かに存在し、数における優劣は存在しないと思っています。


その上で、No Funがここまで人数を増やしながら表現を広げていることは、先述の通り、無駄を削った上に生まれる"無駄"による、切り捨てることも失うことも出来ない価値を味わうためなのだと考えていて。



なんでこんな一見スピったと思われても仕方ないような事を考えているのかというと、No Funの一番好きな「厳冬期」という曲がまさにその"無駄"への愛を具現化したものだと思っていて。



先述の通り、どのような形でも表現が行える今の時代にバンドをやる事はとことんコストパフォーマンスが悪い行為であり、心の中の衝動をぶつけるなら、バンドなぞやらなくても自己表現の手段はいくらでもある、そんな時代に僕たちは生きています。(特にこの流れはコロナ禍において加速した感覚もありますね)



でも、その上で僕たちがなぜバンドをするのかというと、この行為の本質は、本来全く違う人同士の違いを理解し、認め合い、その認め合った人同士の繋がりを生み出すことにあり、また同様に、他を理解し認め合うことは自らをも理解し認める事に繋がると考えているからです。人が居るからこそ分からないことが生まれるし、分かりあうことが出来る(自分自身と向き合い、分かりあうことも含め)んですよね。


僕はそれをひとことに愛と呼ぶのですが、人が人を理解することや、歩み寄ることはすぐに出来るものではないけれども、それが出来た人々・集団は、他では見ることの出来ない、眩い光を放つと信じています。



「厳冬期」の詩の



『今しがた現在地を捨てて
所有物の濾過を終えて
再び過ちや無駄を繰り返そうと思う
そうすれば谷まで堕ちて沢に咲くような君と
世界を笑いのめして生きていけるって思う』




『チェーンソーが要る、失う為に
今までのことを失う為に
狂い切ってしまった
それならせめてもう二度と
見失いたくはない』




という2節には、まさに先程話していたことの全てが含まれていると考えていて。



ひとりぼっちでも出来るはずの表現が、他の個性との混じり合いを経て、1人で考えていた風景よりも確実に大きく、想像のつかないものになっていく。その感覚に飢えて、どうしても触れたくて僕たちはバンド活動をやっているんだと思います。



無駄を切り捨てた結果、ようやく谷にまで視点が行き届くようになり、そこでふと目に入る、世間では「堕ちた」と言われるかもしれない、そんな沢に咲く君の美しさにやっと気付くことが出来る。そんな美しさを絶対にもう、二度と見落としたくはないのだ。全てを手放したくはないのだ。



コストパフォーマンスの悪さを、無駄を愛するのだ。


そんな可能性をNo Funに僕は感じたのです。これからの僕の為に、そして僕たちの為に、自分の表現をやり続けて。その結果として僕は何かを失うかもしれません。だけも、それは同様に何かを得ることでもあると確信しています。



なので、今後はYOOKs,Gue,ULTRA CUBに加えてNo Funの清水になります。どの表現に関しても手を抜くなんて有り得ないし、全部が良くなると思う、そんな確信があります。なので、今後とも僕や僕たち、そして、その生み出す表現をどうぞよろしくお願いします。


次のNo Funのライブは6/30、神戸VARITにて。



『チェーンソーが要る、失うために。』

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