日本語をレクチャーする。
周知のように、日本語の発生論的布置からして、
そもそもが漢語の送り仮名的つかみにつき、
日本語とは、たんぽぽのわたあめである。
そのため、漢字(中国)、カタカナ(外部に接すディスクール。)、
ひらかなの3つが用いられ、遡及的にではなく、あくまで、還元的に
ひらがなが、日本語っぽさの表現に感じられる感受性を事後、
制度的に人工的に使われていった。そしてこのこのような表象になる。
そう、反原発のマークである。ここから感性が立ち上がってくる、
この起点を常に「初めて」であるかのように大切にしているのが、
日本語とそのエクリチュールと呼び習わされているところのものである。
そして、古ジオ・ポリ(Ancient Geo politics)では、
地政学的に異なる港町ドットコムが、西は、琉球の郡小島に
北は、シベリアに接するハイブリッド港町レイヤー・ドットコム
がすでにあり、起源に関して原始的に重層的であった。
そして、その<間>をすり抜けるように、そして逆上がりするように
おおざっぱに、北と南の真ん中あたりから<王朝>とその制度が推移して
いったのじゃった。それらは、自然発生的にいったらば、「適当」
と言った感じのことであった。が、御<家>ニカンシテハテキトウトハ
イエナイ。また、皇統の発生論的な神話は、その固有の神話作用そのものが
世界基準の地球史における風の潜在性により主なる神の視座の下でも、
真っ二つに稲妻に打たれたようにに斬られていた。
この、「あらかじめ斬切されていること」が後にも先にも大切なことで
あったのはいふまでもない。この身の程と自覚が早いものほど政治を正しく
行うことを現在でも統制的に要求する。
そして、クリスチャン、あるいはジューイッシュが宣教に行った/行かない
時代かどうかの、<後/先>は問題ではないし。
また、例えば、諸世界の何人でも、(とりわけ主の諸国のいかなる民、
アラム人でもイングランド人でも古ローマ人でも何でも。)
この言語の特殊さを知りつつスタンスを守りつつ自身の側の神に護られる
のなら、話し、書き、読み、を、日本語でもちいて<描くこと>も
できる。日本語は、当初それ自体にロゴスを受胎してはいなかった言語と
わずかながらも世界に触れていた(今では沈んでしまったが。)
つまり文化Miniがあった程度のものであったが、最低限の礼節
(敬虔なユダヤにも人脈通じる<歓待の法>)には、
古くから認めてしかるべきものであったろう。(PC)
日本語を知るには、
数学の3体問題のような布置と、解けぬ3組(三位一体の三位一体と、
三位一体からの三位一体などなど。)が介入してさえも事象と現象の混同や
混乱してはならないことを前提とす。これは法と掟に
準ずる事柄と主なる神の永遠のもとに定められており動かぬ事実である
のだから、なのだ。
V。
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