見出し画像

輝ける長老のみち 1


わしはのう、となぜにわしは いうかというとな、

世界のなかでは かなーり早い部類で 主のオーダーのもと

<長老の列>に参列するのを 認められたからぢゃ。

そう、わしはもはやユース(キリスト教青年会)のクラスではないのぢゃ。

お年寄りなのである

イギリス国教会にいっても、北欧のルター派の兄弟姉妹へいっても

フランスの愛する兄弟姉妹へいっても、つまりヨーローッパの集合のなかで

でも わしははっきり《長老の列》に属すものぢゃ。

ぢゃが、アメリカ内では まだちょっと若い、そんな感じである。

(どんな感じやねん。)

で、もしアジアにいたら、そのリアルはというと、

もう ものすごく老人日に日に!」といふことになる。

これは、いつでもイスラエルのわが友、またユダヤ教のラビ(よき友人)

とかを通じて、 

長くたゆたう憂愁の時の流れ

主なる神の御前に深く感じいるからにほかならぬ。

さて、現実の主イエスの王たちを支え、そしてその子供たちさえも

見守る役割の喜びも少しはいただけた

わしは、年を経ることのその有意義さを心得た。

これは、わしが例えば、わしの主の兄弟姉妹の60歳の老人を神のご計画

のうえでの導きのもと、実質20年以上追い越したのが事実としても、

その60歳の老人が未熟だ、 といふことでも無論ない。

また、主の御栄光のなかに招かれている<約束の民>であることの

この聖化の歩みは、ともに現に絶えてはいない。


そしてまた、光の速度の有限性やアインシュタインの相対論は、

たとえその過程での単なる<偉さ>とかといったものを侮りも見くびりも

せず すとんと同定する、この審級の正確さ。

これをこそ、<老い>というのぢゃ。

そして、主の光の導きに従い 確実に前向きに 永遠に生きることを

神のみ前にただ誠実に受け入れつつ。


そのようなわけで、単なる肉体の衰えのことをネガティブに「老化」

といふのでは決してない。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 105

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?