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Yosh Profile - part.2 -
Music Career 続き
わしの16歳は、小さな長屋での一人暮らしで始まった。
プリンスも聴いてはいたが、一番のすきなアーティストは
やはり今でも変わらないが、ZZTop じゃった。
(この頃、彼らはベテランの貫禄ぢゃったが、新人の老人ぢゃ。)
よく、ツバキハウスのロンドン・ナイトとかがあったころは、
新宿LoftやJam、渋谷La mamanへいったりしたものだった。
生まれて間もないころTokyo Cityで、標準的なディスクールの仕方
(説話論的なもののニュートラルな態度の日本語バージョン。)
いわゆる東京弁ではなくて、もっと色のない言語としての日本語を
モダニスムのミラーを通して会得していたが、そのノリは、ポスト・モダン
の華やきしころの知恵、あるいは、処世術に対応していた。つまり、世界の
大きな80年代的諸相を涼しく過ごすあり方を得ることに呼応している。
ところで、わし、「日本語のうたとその声」を常にまったく聴いていない人
であった。「歌う=日本語」といふ回路が自然といふのではないたちでのひ
とであった。だから、エモな曲や、センシティブで詩的なのもわしにとって
は、英語の歌がいつでもナチュラルなのであり、ツールではなく、いわば
地声の声とその意味の全てであり、まったく他の言語で聴く
態度はできていなかった。だが、イギリスの音楽とそのモダニスムを
通じてのみ、のちにやっとのこと日本語の歌詞や声が聴けるようになった。
つまり、50年代のアメリカの音楽に影響を受けた60年のビートルズ
より始まる、とみてよいだろう。音楽の構成要素から、遡及的に
PCのデフラグ補正ツールのように、アメリカのものと平行して
イギリスのポップスをたくさんよーく聴いていた。そうしたら、日本語での
うたのフォーマットと感性がついでによーく客観的にわかっていった。
(ま、いまでも、あんまりよくは聴いてはいないけれども。日本語と制度
には、依然として「0記号」があるからね。)そして、日本語のポップスと
いうのも50年に底が暖められつつ温存され、60年にほんのり灯をとも
し、詩をフォーマットし直すとともに、新たに創り出され精錬され、
80年代に晒されたかたちの、しかしその流れから0記号に抗うように、
声が位相の隙間から発せられ、発せられる瞬間から、半分消えうせつつも、
半分、何とか意味をメッセージとして残そうとクレバーに立ち回っていた、
もちろんそれ自体がパフォーマティヴな都市のの劇場と野球場などの
スタジアムの運動装置とあいまって広告が展開されていった表象への倫理
(世界においてその体系が異なるためになされるたち振る舞いのゆらぎと
その制限。)と良心への文化的な現象。
このような時代のなかをわしは、風を切って走り抜けなければならなかっ
た。どれ位が、「十分に速い」といふのが、その時、その現在時には、
いまひとつ分からないままに。
イスラエルのダビデの星のノースリーブを着て、底力を自身にそっと確かめ
ながら、都市のいつもすでに寂れ果てそうな摩天楼を見上げてた。
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