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国際バスケットボール連盟のお湯具合に関連してと、それに付随して温泉卵に関して

http://www.nikkansports.com/sports/news/p-sp-tp0-20150106-1418012.html

さて、3X3.EXE の世界規模の展開(の広報)をわし個人は

USAに帯同するかたちではあるが、ヨーロッパよりも、また

日本の認可よりもに一足早くかかわったわしからの雑感を。


92年以降の日本のバスケ状況にはほとんど関係なかったのぢゃが、

どっかフラストレーションを感じもするのは親心ぢゃろうか。

実力に関して、その潜在的な力はあると思ふのはわしがいふまでも

ない。RED BULLの協賛でやったEXE.@Tokyoもなかなかみごたえがあった

し、わしも可能性を感じた。じゃが経営とそのガバナンスそのものに関する

ボケぶりは日本一般に蔓延しているような事柄で、どうすればよいのか、

などといふ自明の問題は、かなりばかばかしい話なので口はここでは挟まな

いことにしておく。

イデオロギーといふのが全て原理に端を発する還元なのではなく、

神のみ前に許される所与に、プライオリーをもうけ、内包するかたちで原則

化する統制的理念からの生成を含むところからみた構成とそれが協同的(コー

ポレイティヴ)に働く仮象を雛形(例えば、カンパニー)にとり生産関係に分

節してマネージメントするビジネスへ所産とする命(の代謝のように)の表

出と表現の間の差異的運動がその資本とするいきづくものへとコミュニケイ

トするときのある種の固有な共同性と多様性と法則を、例え、神の下で王族

を含む身分の上下がそのクラスを受けて、理念を終わりから逆さにフリーダ

ム (リバティーからフリーダムへの流れのようなイデオロギーの流れのよう

に。)のような領域を過程を許すとともに与え、育むとともに歩むとともに

学び、そして成長を助け、そこにゲーム性を健全なる精神が擁護する範囲で

与えなおすことで、スポーツとアスリートもまた許されるのだから、競技で

得られよう自信や謙虚さの美徳は輝くものとして表象されうるエンターテイ

ンと成り得ることで、事後的な合理性として法人格や、また株式(いわば、株

式といふのは、「老人格」の親心で実態としてその制限をやや予め持つ。)

といふアソシエイトをあたえられうることで事業が成立しうることが教育的

な基盤を暖めもすることの由縁となるように働く実態をともなった諸行のバ

ランスである。

それだから、ここで、ただいえるのは、その責任がバスケの協会にのみある

といふのは幻想であろうし、そのことを皮肉でもなんでもなく心より気の毒

におもふ。ガヴァメントのせいだってあるしの。



ちなみに、「赤字」といふのはアプリオリにあるべき性質のものではない。

だが、それが、「共同体」といふ意味で、またそのステイク・ホルダーだ、

といふのなら、それは紛れもなく単なる赤字である。数字の問題ではない。

ちなみにちなみに、「コミュニティ」、それは、いつも再び創られるのを待

つ姿勢である所の登記の束である。資本主義でも、共産主義でも主義といふ

「イデオロギー」が資本の運動の概念、またはその観念を誤読したり、誤解

したりしても、単なる硬直化した経済-原理主義と制度に打ち負かされるだけ

ぢゃ。これをこそ歴史の皮肉といふ。




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