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Midnight To Stevens(7)

最初に翻訳を始めてから、早いものでちょうど2年経過していました。

相変わらずガイに関する情報は少ないのですが、2003年の9月に行われたガイの元妻であるディ・スティーヴンスのインタビューがありました。インタビュアーは Bill Brewster というDJ 兼 音楽ライター。

ディの記憶が曖昧なのか、それとも当時の事情がよく判っていなかったのかは不明ですが、正直ガイの回想録としてはやや残念な感があります。もう少し詳しく知りたかったな~

しかしながら、ガイがミュージックビジネスにどっぷり浸かる前の状況や彼女を通してのガイの姿が新鮮でしたので、こちらに繋げることにしました。50年代後半にティーンネイジャーだったディの姿や、ガイと出会って2人がよく踊りに出かけた場所や、そして彼女から語られる The Scene Club など… 

ディ・スティーヴンスが話す 、天才プロデューサー・MOD DJ  ガイ・スティーヴンスの人生

ディはかつての夫、ガイ・スティーヴンスの破天荒な生きざまを約25年もの間、直に見てきた人物である。
彼らの最初の出会いはロンドン行きの通勤電車の中だった。その頃のディは、その年頃には珍しくない、ちょっぴり反抗的で自由奔放なティーンエイジャーで弁護士事務所に勤務していた。ジャズやロックンロールで踊るのをなによりも愛し、安定した生活や保険会社で働く毎日にウンザリし、わざわざ破天荒な人生を選びたがるガイに親近感を覚えていた。

10年後、ガイはイギリスの音楽界で最も影響力のある人物となっていた。Island Records の専属プロデューサーでありながら、UK Sue を立ち上げた。このレーベルは、当時まだ知られていなかったアメリカのソウルや R&B の素晴らしさをイギリスで広めたことで、その名を馳した。その後 Mott The Hoople のマネジメントやプロデュースを行い、The Clash はガイがロンドンのモッズシーンの立役者であることに敬意を表し、彼らのアルバム「London Calling」のプロデューサーに起用した。

ディが二人の間の息子であるジェイムスを出産した1963年、ガイはロンドンのクラブ密集地域で一躍有名人となる。ヤマ師的要素を持つ、アイルランド系精鋭実業家ローナン・オライヒー自身が経営する The Scene Club で “ R&B Disc Night “ のDJを依頼したところ、これがたちどころに The Rolling Stones、The Who、The Beatles、The Small Faces など錚々たる人物たちが集う人気イベントとなる。
このガイがDJ担当した月曜日は、アメリカの強力な R&B やソウルを体感できる唯一無二のイベントとして、また週末からブッ通しでアンフェタミンを摂り、踊り、酒を呑み続けたまま月曜を迎えたい輩にとっても相応しい場となった。

ガイが音楽界で活躍するに比例して、アルコールとドラッグの消費量は高まっていった。
結果、1968年にドラッグ保持の罪で数ヶ月を刑務所で過ごす羽目となる。災難はこれで終わらず、ガイにとってかけがえのないものであったレコードコレクションがそっくり盗まれてしまう。こうした悲劇が彼をバンドのマネジメントやプロデュースの方向へと導いていくが、同時に更に激しいアルコールへの依存へとも誘うこととなる。
1979年、ガイは The Clash のアルバムをプロデュースするが、ディとは別離する。
悲しいことに、その2年後の1981年、ガイは処方された薬物の過剰摂取が原因でこの世を去る。まだ38歳の若さだった。
翌年、The Clash はガイに捧げる曲、“ Midnight To Stevens “ をレコーディングする。この曲は1991年にリリースされた “ Clash On Broadway “ に収録されている。

以下のインタビューは2003年に行われたもので、ビル・ブルスター氏(音楽ライター・DJ・レーベルオーナー・レコードコレクター)に、ガイと過ごした日々や彼の初期音楽活動や伝説の The Scene Club でのレジデントDJに関して、またレコードコレクターになるきっかけ等をディ自身のジャズや MOD クラブでの体験を交えて語ってもらった。

「出身はどちらですか?」

7歳の時にサウスロンドンに越してきました。ですから、ここ [ Brockley:ブロックレー(ロンドン南東)] で育ちました。今でも姉妹がすぐ近所に住んでいます。20年前にまたここに戻ってきたんです。両親はDocklands(ロンドン東部テムズ川 沿岸)出身で、私は1943年生まれです。

「クラブにはよく通っていましたか?」

そうですね。最初の頃、学生時代はソーホーのジャズクラブによく通ってました。

「サイ・ローリーズクラブに?」
(注:サイ・ローリーズジャズクラブのこと。ロンドン初のオールナイタークラブで、のちのThe Scene Club)

サイ・ローリーズはよく行きました。

「ザ・フラミンゴには?」

SOHOのウォードワーストリートにちょっと変わった靴屋さんがあって、ザ・フラミンゴはその隣にありました。ちなみにその靴屋さんは今でもホロウェイロード (ロンドン北部)にお店があります。
ザ・フラミンゴにはよく通っていましたが、当時父が私の帰りを待ち構えていて(笑)。ジャズが好きだったので、ジャズがかかる日曜によく行ってました。ロックンロールも好きでした。

ガイとは、ウーリッジ(ロンドン東部)にロックンロールのショーをよく観に行きました。
ある日、ガイは待ち合わせにトリルビーみたいに変な帽子をかぶってやって来て、「この人と一緒に街を歩くのイヤだわ。」と思ったのを覚えています。私は音楽とジャイブを踊るのが大好きでしたので、100CLUBにもよく行きましたし、実は今でも行くんですよ(笑)。
それからリヴォリ・ボールルームにもよく一緒に出掛けました。ボールルームという場所をTVなんかで観たことある方いらっしゃると思いますが、そういう時に必ず使われるのがこのリヴォリ・ボールルームです。

「ライシアムには?」
(注:ライシアム・ボールルームのこと。現ライシアム・シアター。多くの有名バンドがライブしていることで有名。もちろん The Clash も!)

行ったことあります。確かモッズの男性と一緒に。彼はダンスがとっても上手だったので、友達に靴を借りました。

「自分は MOD だったと思いますか?」

当時の流行というか風潮で言えば、そうも言えなくもないかもしれませんが「あの頃の私って何?」と聞かれてもわからないわ。もっと若い時はボビーソックスに大きく広がるスカート、ヘアスタイルはポニーテイルでしたから。

「ガイとのなれそめは?」

彼の知り合いと私の知り合いを通して知り合った…というような自然でありきたりな出会いでした。
でもガイが言うには、ずっと前から電車の中で私のことを見かけていて、一度話してみたいって思っていてくれていたみたいで。ガイは当時フォレストヒル(ロンドン南東部)、私はブロックレーに住んでいました。

「それはいくつ位の時ですか?」

多分16か17歳だったと思いますが、仲が深まったのは暫く経ってからです。ジェイムス(ガイとの間の息子)を授かったのが19歳の時で、自分の感覚ではもっと長い期間だったようにに感じます。何故ならガイとはつかず離れずな微妙な関係でしたから。彼は当時銀行で働いていて、その頃はレコードにそんな興味は持っていませんでした。

「でもガイはその時から音楽に興味はあったんですよね?いつ頃からレコードを集め始めたんでしょうか?」

ええ、興味はあった。でもどういう経緯で音楽に傾倒していったのかは覚えていないのよ。
例えば、バレット・ストロングの “ MONEY(That’s What I want)” のようなレコードを集めるようになったきっかけも思い出せないのよ。

二人でフォレスト・ヒルに住みはじめて、私の方が彼と一緒に住むと決めたのですが、父からは猛反対を受けました。私の両親は「あんな男!」と交際に大反対でしたから。

「あんな男!とは、具体的にどんなだったんでしょう?」

私の両親の言い分に聞き耳を持たない、非常識な振る舞いや変わった服装なんかでしょうね。でもそこまで酷いって程でもなかったんだけど、私だって若かった頃はグリーンのストッキングを履いたりしていたけど、そんな私と母は絶対に一緒に街を歩こうとはしなかったから。その頃はね、黒いスエードの靴にフェルトのスカートに長めのジャンパーでサイ・ローリーズに行ってジャイブを踊っていたの。当時は弁護士事務所で働いていたけど、もうイヤでイヤで。でも学校に行かないなら働かなきゃダメだって母から強く言われて、仕方ないから職を探したの。広告会社にも勤めたけど、そこもあまり好きではなかったわね。

「で、ガイは当時銀行で働いていたんですね?」

そう。このことについてガイはあまり語りたがらなかったわね。おおかたひどい喧嘩か何かをしてしまったんだと思う。ガイのお兄さんがシティ(ロンドンのオフィス街)で働いていて、その後友人のローランドとヨーロッパの何処かへ行って、帰国してきて…みたいな状況だったけどハッキリしないわ。

「ガイとの出会いは何年のことだったんですか?」

1960年ね。

「ガイは将来的にどうしたいみたいな話を、あなたにしたことはありましたか?」

最初はハッキリしない感じだったけど、レコードが絡んできたあたりからだんだんと明確になってきたみたいね。その頃はインディペンデントなレーベルなんて存在していなかったし、クリス・ブラックウェルとディヴィッド・ベタリッジの二人が Island Records を創立して、ガイにその傘下である Sue Record を任すようになった。
だから、Island Records で働きながら The Scene Club のレジデントDJも同時にやってました。そして私たちは結婚して、どこにでもいる普通の生活を送っていました。カムデン(ロンドン北部)に住んで、ガイはそこから仕事に通って、私は子供を授かりました。

「いつ頃に Island Records に就職して、お二人は結婚されたんですか?」

ハッキリ覚えていないけれど、Island Recordsの創立はいつだったかしら?(1959年です。)
ジェイムスが生まれたのは私が19歳の時で、その前からガイは Island Records で働いていましたから。Island Records からお声がかかったのは The Scene でのDJのおかげなの。
どのような経緯なのかは詳しくはわからないけれど、その頃には私たちはグロスター・アヴェニュー(ロンドン北西部の高級住宅地)に居て、ガイは個人的にたくさんのレコードを輸入してコレクションしていました。

            息子さんのジェイムスと

「その昔、SOHO で毎週金曜日に輸入レコードを売っていた男性が居たらしいですが?」

ガイは確かに自分でレコードを輸入して売ったりもしていたわ。ガイかもしれないわね!ところで、あなたはコズモ・ヴァイナルをご存じ?

「面識はありませんが、知っています。」

彼ならこのあたりのことを良く知っている筈なの。コズモがガイの本を出すっていう話があったから。私は確かにガイの妻だったけれど、こういうビジネスの話を二人でちゃんと話したことはなかったと思う。

「あなた自身は The Scene Club に行かれたことはありました?」

もちろんよ!私たちはよく外に出ちゃってたけれど。場合によっては独りで外に立ってた時もあったわ。シアターに行くときはめかしこんで。ウインドミル (The Sceneがあった場所付近一帯。シアターやナイトクラブの密集地)で仕事していたこともあったから。
その中でも The Scene は有名なクラブだった。マリファナを吸う人たちばっかり居たけど。The Sceneは地下にあって、真四角な店づくりだった。DJブースが結構高い場所にあってDJブースがオープンしなくちゃ誰も踊らない。店に入れば、ターンテーブルがどこにあるのかわかるくらいに狭いお店よ。そこでガイはDJしていたの。エリック・クラプトンをはじめたくさんの有名人が来てたわ。

「キャパはどれ位だったんですか?」

200 ~ 300 位じゃないかしら?

「もっとThe Scene Clubについて話してもらえませんか?どんな人が来てたんですか?」

そうね…エリック・クラプトンやジョージィ・フェイムとか。私が思うにあそこは MOD のための場所だった。ガイは月曜日のレジデントDJだったから、週末の延長線上にある場所って言えばいいかしら? MODのお客さんすべてがアンフェタミンを服用していたかどうかまでは分からなかったけど、とにかく平日はキッチリ働いて、週末にはアンフェタミンの錠剤を手に入れて夜の街へ出かける。ザ・フラミンゴに行った後、物足りなかったらそのまま The Scene に顔を出す…っていう具合に。

「DJブースはどんなだったんですか?」

私の記憶だと、ターンテーブルの周りに囲いがあって、そのブースはちょっと高い場所にあった。ガラスかアクリル樹脂が貼ってあって、DJするガイの顔が見えたわ。

「ターンテーブルは1台?それとも2台?」

多分2台あったんじゃないかしら?違う?

「いや、私もわかりません。ガイは曲の合間にしゃべったりしていましたか?」

いいえ。ただレコードをかけていたわ。彼はシングルしか使わないの。

「ガイはThe SceneでどれくらいDJをしていたんでしょうか?」

1年半から2年位じゃないかしら?

「 The Scene Club を辞めるきっかけは?クラブの閉店が理由ですか?」

わからないわ。オーナーのローナン・オラヒリーとガイの間には大きなコネクションがあって、確かローナンはガイに Radio Caroline でもDJをしてもらいたかったみたいだったけれど、ガイはすでに Island Records と関係があったので叶わなかったんだと思うわ。

「ローナンは The Scene によく居たんですか?」

ええ。ただガイとはお金のことでしょっちゅうモメていたみたい。ローナンがお金を払わないって言ってたわ。おそらくそういったことが理由で、ガイはIsland recordsに気持ちが移ったんじゃないかしら。

「クリス・ブラックウェルはやり手ですからね。」

その通りよ!実は数年前にキングスロードで彼を見かけたんだけど、わざわざ話しかけたりしなかったわ。

「ガイ自身はアンフェタミンなんかのドラッグをThe Sceneでやったりしていたんですか?」

いいえ。その後ずいぶん経ってからよ。ちょっと驚く話でしょうけど、The Sceneの時代はまったくドラッグはやってなかったし、土曜日にはフットボールの試合に出掛けるような普通の人というか、真人間だったのよ。
ガイはガイのお兄さんと一緒にArsenal(アーセナルFC : ロンドン北部のクラブで通称 “ The Gunners “ )の熱狂的なサポーターで、本当にフットボールが好きだった。

「ガイは生涯ずっとレコードを集めていたんでしょうか?」

ええ。だけど生活のために売ってしまうこともあったみたいよ。悲しいわね。


インタビューは唐突にここで終了する。ちょくちょく興味深い話も出てくるものの、何とも歯がゆいインタビューだなあ。でもディの妻そして女性目線で語られるガイ像は、とっても新鮮。電車の中で恋したとか(笑)。

もうひとつ気になるのは、DJ中はガイは話したりすることはなかったとディは話しているけど、ローナン・オライヒーはインタビューで「ガイはそれまで誰も聴いたことのないR&Bをかけては、アーティスト名やレーベル名を話してくれていた」と証言しているんだけどな~途中からスタイル変えたのかな?

ディも言っている、コズモ・ヴァイナルがやはり色々知っているらしいから何か書いてくれないかなあ?コズモお願い!

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