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たゆたう街、うたかたの言葉

少し前、興味本位で、初めてカウンセリングというものを受けた。

何故なら、カウンセリングというものを受けたことがなかったから。

人生において様々な刺激というものがあると思うが、やはり「やったことがないことがないことをする」ということ以上に、僕を揺るがす刺激は存在しないように思う。

それが、仮に思い込みだったとしても。

別に期待はしていなかった。

そこそこ値は張ったが、そんなものはどうでもよかった。

その価値が、その値段で適当か否かは、その時の状況以外決めることなんて出来ない。


90分会話をした中で、カウンセラーは言った。

「たぶん、それだけいろいろ好奇心持って勉強してる人だから知ってると思いますけど、自身をHPSだと思うことはありませんか?」

僕は、驚くこともなく、「おそらくそうだと思ってます」と答えた。

実に、偉そうな回答であることは認識している。

そして、その上で回答している。


HSPをどう捉えるかは、それは、自身、そして時代が決めるものである。

これだけ「繊細さん」という概念が浸透した今では、それは社会的にも受け入れられるかどうかは別として、認識されている性格、ある種の人格なのだと言うことはできると思う。

でも、一歩ずれれば、それはただの「気にしすぎ」であり、オーバーに言えば「めんどくさい奴」である。

僕にとっては、どうでもよかったことでもあり、とはいえ、自分を理解する上で、カテゴライズされることは、わかりやすい概念が生まれることでもあるから、悪い気はしなかった。

でも、やっぱり最後には自らにこの問いが生まれる。

「だから何?」

そう、だから何なのだと言う話。

HSPだから、正確にいえば、僕の場合はHSS型HSP。

だから、何?

って話。

きっと、みんなも理解しているように、人それぞれ性格があって、誰もが同じ人などおらず、もし仮に、その特徴を「障害」みたいなカテゴリーを作るのであれば、それは全員分なければならないことになる。

何が言いたいか。

そんなことは何もない。


ただ、僕は、上手いか下手かどうかはべつとして、いや、下手であることは大いに認識した上で、

「言葉を紡がねばならない」

そう、思っただけである。

もはや、HSPも関係ない。

何か気づいてしまった人間としての表現をしなければならない。

勘違いしないでほしい。

おごりではない。

ある種の運命のように見える、自らに課した宿命である。

言葉を紡がねばならない。

それが、刹那に消えゆこうとしても、言葉を紡がねばならない。

それまでのことである。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!