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女を巡る物語――『REVOLUTION+1』について

 まず初めに言っておく。このREVOLUTION+1という映画と、安倍晋三銃撃事件を、同一視するべきではない。安倍晋三銃撃事件は、山上氏がどんな生育環境で、どんな生活をし、どんな思想を持ち、犯行に及んだか、を丁寧に考える必要がある。それは、長い時間を掛けてするべきことで、たとえば杉田俊介が「加藤智大の暴力」*¹を書いたように――性急に結論を出すべき事柄ではなく、私たちひとりひとりが内省を以て考えるべきことだからである。翻って、REVOLUTION+1は、周知の通り、安倍晋三銃撃事件及び山上(作中では川上)を描いた映画である。ここではあくまで、この映画をいわば評論的に考察していく。
 まずはREVOLUTION+1の大まかなストーリー。主人公である川上は派遣労働をして生計を立てている。仕事をしては辞め、の生活。その中で、星になると言い出す。そして、自分の出自である統一教会の幹部――ではなく自らとは真逆の存在の安倍晋三を殺すことを企てる。ざっとまとめるとそういう物語なのだが、これは事件を知っている者ならすでに理解していることでもあるはずだ。
 私が論じたいのはそういう話ではない。上述したように、あくまでREVOLUTION+1という“映画”について、論じていく。

 この映画には三人の――正確には四人のキーパーソンが出てくる。それも全員が女性である。そして、この女性たちが、私が考えるREVOLUTION+1の重要なテーマに関係している。ひとりずつ紹介していこう。
 最初に川上に深く接近しようと試みる女性は、川上が自殺未遂をし、入院した後、その病棟で登場する。「私も宗教二世なの」と打ち明けるその女性は、川上が座るベッドに腰を掛けると、いきなりTHE BLUE HEARTSを歌いだす。すると、川上も一緒に歌いだし、「みんながWANDSとかB'zとか聴いてる中、俺はブルーハーツを聴いてた」と、救いがTHE BLUE HEARTSにあったと打ち明ける。その後女性側が川上に抱かれようとするが、画面が白く変わり、次のシーンへ移行してしまう。
 次に出てくる女性。これは川上が住むアパートの隣人である。病院で出会った女性がショートカットだったのに対し、この隣人の女性はロングヘアーだ。そして部屋に川上を招き入れた後、「私は革命家二世なの」とこれまたなぜか川上に打ち明ける。そして後日友人たちとパーティーを開くから、と、川上を誘う。しかし、川上はそのパーティーには出席せず、隣人の部屋を一瞥した後、自室に戻るシーンが映される。
 三人目。これは川上の妹である。この妹は、事件の前には川上に不遜な態度で接する。しかし、事件後、カメラ目線で観客に訴えかけるシーンが出てくる。

きっと世間は「テロだ」「狂った行動だ」
みんな言いたい放題に野次を飛ばすよね
「民主主義の敵だ」って言うバカもいる
でも民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ
誰が考えても民主主義の敵を攻撃したのは兄さんだよ
だから私は尊敬するよ

https://www.youtube.com/watch?v=Vwkr9j_YK8U

 いきなり川上を全肯定である。何かがおかしい。では、次の四人目を見てみるとしよう。
 四人目は、川上の母親である。この事件の――川上の不幸のはじまりである母親。この母親とも、作中基本は仲が悪い。というよりうまく歯車が合っていない感じだ。しかし、事件決行の前に、統一教会の施設の前で、母親が掃除をしているのを目撃した川上は、それを手伝うシーンがある。ただし、その手伝うシーンは、川上の妄想だった、と次のシーンでは明らかにされる。このシーンですべて、、、 が決定的になる。どういうことか。つまり、いままで出てきた女性はみな、川上の妄想である可能性がある。妹に関しては妄想とまでは言えないかもしれないが、すくなくとも妹がこちらに語り掛けてくるシーンは川上の妄想――ないしは川上にとって、妹に、世間にこう思ってほしいという願い。さらには、監督足立正生の主張、とも言える。
 たとえば、この映画には川上の兄も登場する。兄は障害を抱えているため、日常生活がままならず、自殺することを選んでしまう。その自殺した兄が、銃の出来を試用する川上に語り掛けてくるシーンがある。完全に川上の妄想のシーンである。
 ラストシーンでは、川上はうずくまる。それでこの映画は終わる。当然フロイト的な胎内への回帰と解釈することも可能だろう。ただし、私はそういう精神分析的な論じ方をするつもりはあまりない。
 私が言いたいのは、川上が複数の女性(妄想だとしても)に何かをしてほしがっていた、ということである。もっと正確に言えば、自分自身を救済する存在を希求していた。そういうことだ。

 始めに言ったように、この映画と、実際の事件を同列に語ることはできない。できないが、こうも考えられないか。山上をいかに救済――とまではいかないにしても、いかに幸福に暮らせるように社会を作れなかったのか。私たちの住むこの国は、それができなかった。この歴然たる事実に、私たちはいまも、これからも、苛まれ考え続けることを要請されることだろう。そして、どうこの国を変えていけるかが、私たちに残された使命なのは、自明のことと言っていいだろう。







*¹杉田俊介『神と革命の文芸批評』法政大学出版局、二〇二二年、一三八頁。

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