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私と国勢調査

私が社会人になったのは昭和24年でした。どの様な仕事をするのか考える事もなく 
総理府統計局に採用された喜びを胸に 家を7時に出て 京王電車に揉まれ、8時30分迄に
かつては陸軍の騎兵連隊が有った新宿区河田町の馬小屋に床を張っただけの建物に駆けつけ、出勤簿に判を押すと言う毎日が始まったのでした。京王電車は、戦中走って居たままの姿で、まだ二両編成、
電車はガタガタ揺れて、新宿に着く頃には身動きの出来ない人人に押されて、窓ガラスが割れてしまう事は珍しい事では有りませんでした。新宿三丁目から 若松町、河田町を走る都電は有りましたが、現在の様に交通費の支給は有りまませんでしたから 新宿駅から河田町までの30分は歩きました。出勤時間と退庁時間 その道はおそらく戦中には見られなかった 華やかな流れになって居たと思います。
其処は女学校の延長の様な女子ばかりの職場でした。新しく私達は10人を1組としてそれぞれ組長、補助と8人の組員とに纏められ 、10組ほどが1係になって係長が居リ 更にその係りを5個程纏めて1つの課と成リ 課長が居ました。その課長1人だけが男子でした。
仕事と言っても毎日数字の練習ばかりで、黙々とok. が出るまで書きます。後はソロバンの練習でした。ソロバンは皆が得意でした。


国勢調査が始まる少し前に 私達は集計の課と決まり 集計の課は新館と言っていた馬小屋では無い建物に移動させられました。面積は分かりませんがかなり広い建物でした。しかし冬の暖房と言えば、達磨ストーブが中央の通路に幾つか並ぶだけ 夏は扇風機が回るだけの部屋でした。
そうこかうして居るうちに昭和25年に成り、いよいよ日本で初めての国勢調査です。
私達は緊張しました、間違いは許されません。まず、各県から送られて来た調査表の検査。しかし、それは間違いの多く、記入漏れなど県に連絡したりして時間の掛かるものでした
そして集計です。どれ程、桁の大きな数字で有っても指先でソロバンを弾き、答えを出します。若い娘達の指先でも、日本のソロバンの答えは正確です。集計された数字はその後 発展して行った日本の各分野で 働いた筈です
今回はコロナ対策の為に、初めて個人提出に成ったので、私は10月5日に調査表を郵送しました。
その後 8日の新聞で回収率53%なので期限を20日まで延長との記事が目に入り、ぼやけ始めた頭の中から忘れていた青春の世界が浮かんで来たので 書いてみました。


戦後5年 慌しい世の中で私達は 卵焼きに、海苔くらいのお弁当を持って家と統計局を往復し、ソロバンとの格闘で過ごして居ました。振り返って見れば 味気ない青春で有った気もしますが、労働運動・学生運動等を眺めながら、自分達の生活を縛って居た統制が外され、これが自由と言うものである事に喜びを感じ、個々を磨く新鮮さ・楽しさに浸る事が出来た青春でも有ったと思います。
 

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