野川の流れに父を想う

久しぶり西の中天に大きな星1つ輝いて居る。
あちこちの水溜りを避けながら歩く団地の道は静か。鳩が私の足音にも平気に集まって何か啄ばんでいる。今朝は冷えると聞いたので上着を覇をって野川の遊歩道に出た。
野川の流れは一定では無い。勢いよく流れているかと思えば、波などなく鯉の姿がハッキリ見える。水鳥の泳ぎで出来る、幾重もの輪だけが浮かぶ場所もある。
私の耳の奥で、今NHKが放映して居る「エール」の中で奏でられて居る、数数の軍歌が聴こえてくる。
作曲者が誰なのか、子供の頃は考える事無く大きな声で歌っていた。どの曲も好きだったから、聴力を失った今でも歌えると思う。あれは古関裕二の曲だったのかと思う。
戦前、男子は徴兵検査と言うのを20歳に成ると受ける義務が有った。其れは甲種・乙種・丙種と男子の身体を検査して決めていた。登録されて甲種から召集が始まったのでは無いのかと私は思う。
理由は父は甲種で合格してすぐに戦地に派遣されたからである。
日中戦争が始まったのは、昭和12年。だがその前に父は、中国に派遣され怪我をして居る。
父の右手の小指の下に終生消え無かった痕があった。何処での事かわからないが、父は飛んできた弾丸にあたり「ああ死んだんだ」と思って暫く倒れていたそうだ。何だか死んでいないかもしれないと起き上がってみたら起きがれた。胸を押さえていた手からは血が流れていたが、痛い胸からは血が出ていなかった。調べてみると、胸に入れた財布の小銭に弾丸がめり込んでいた。父がよくしてくれた話だ。
度たび現役兵の時はと言う言葉を聞いたが、其れは兵隊検査の直ぐ後の中国派遣の事ようだ。この時の右手の負傷で帰還したらしい。
その後結婚して私が生まれたのが昭和7年。私が「嫌いや」が言える頃に、父は再び招集された。その頃招集されると、近所の人達大勢で送っていたようだ。私は、その騒ぎを怖がり、当時可愛がってくれた母の弟から「ふみえが離れないで困った」と度たび聞かされたから父の出征はその頃と考える。その時の招集期間は長かったのではないかと思う。
私の記憶にある事。母が「夫が居なくとも七五三の着物は着せたいと頑張って働いた」と言っていた事。3月生まれの私は7歳で1年生。その時父はその時居なかった事。ランドセルとか新しい机等、1年生の支度を母と2人で買いに行った事。
長い間、母と2人だけの生活だった。
母は朝から夜迄、私より2、3歳年上の女の子が居る裕福な軍人の家庭に、私を連れてお手伝いに行き、夜は遅くまで柔道着の指子を縫って内職していた。
私が小学校2年生の時 父は除隊になって帰宅した。
その前年 父の所属の部隊「近衛歩兵連隊(東京に本籍の有る人の連隊) の加納部隊」が全滅したとの報に、悲しみのドン底に居た母は夢の様であったと思う。
全滅の当日、たまたま隊長の乗る馬の体調が悪っかった。そのため面倒を見ていた7人と馬は、部隊が全滅した場所に到着するのが遅れた。その時馬の世話をしていた7人だけ難を免れたと聞いた。
私には2人の弟がいる。上の弟とは10歳、下の弟は12歳違い。上の弟が生まれ下の弟は未だ母の胎内にいる頃に、父にまた招集令状が来た。でもこの時は意外と早い除隊となり、15歳違いの妹が産まれた。
幼児の私が小学校2年になるまでの長い出征の後も招集令状が来たと言う事だ。
昭和13年、北多摩郡神代村に引っ越して来たのは、父が新しく出来る軍の馬蹄を作る軍需工場に参加するため。軍の仕事なので、もう招集は無いかも知れないという微かな希望も有ったのかも知れない。
 しかし、昭和19年か20年にも招集された。その時には海外に派遣する船も無くなったためか内地勤務で終戦を迎えた。
近所を見回しても父ほど何度も招集された人は居なかった。どの様な選び方で父だけ繰り返し招集を決められていたのか理由はわからない。不公平な選び方だと当時思っていた。父は90歳で亡くなった。
歩兵だったから脚が丈夫で、歳を取ってからも都内をあちこち散歩して居た。特に浅草へ行くのは大好きだった。





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