新鮮
外出を控えるようになり、人ごみを避けるようになり、仕事で外にでても寄り道を減らして家に帰っている。
3月に入ってすぐ、食料品や日用品をいつもより多めに買った。
もとより、いざという時のための備蓄と日常的に使うもののストックを明確に分けずに二週間くらいなら家から出ずに過ごせるだけのものはあるのだが。
それでもさすがに、いつもなら、生鮮食品は毎週新しいものを買って食べている。
世界各国で外出自粛令が出た、だの
マンションの部屋から出られないから窓越しに住民たちが励ましあってる、だの
あまりにも衝撃的な情報が飛び交い、
いまこの東京で悠長にしていられるのも時間の問題ではないかと思う。
だから、なるべく日持ちする生鮮食品を買い、冷凍保存させる。
それらをこつこつと食べ続け、3月の半ばまできた。
そしてこの一週間ほど、わたしは生のものを食べていないことに気づいた。
肉を解凍し、冷凍のまま炒めた野菜に放り込んで味をつけたら、それなりの料理ができる。
別に「いつも」と大差ない。
ただ、付け合わせの野菜が茹でてあるものだったり、作り置きの小鉢のみだったり。
わたしはこの食生活に疲れてしまった。
新鮮なものがたりないのだ。
新鮮なものを摂らない生活は、いとも簡単にわたしの精神的余裕を奪う。
鬱々としてしまう。
みずみずしさは、時間経過でどうしたって失われる。
水分は生命において言うまでもなく重要だ。
日本に住んでいたら蛇口をひねれば(住んでいる住宅の水道管が正常であれば)安全に飲める水がでる。
それなのに「水」の商品は巷に溢れかえり、眉唾物の水ビジネスはそこかしこで新たな顧客を得ている。
水を良くすればQOLが上がることを、人間は刷り込みされているかのようによく分かっている。
水が大切なのは人間にとってだけではない。
むしろ、植物にとっての水の重要さは計り知れない。
栄養をたっぷりたくわえた土に含まれている水をぎゅんと吸い込んで、ぷりっと熟れた果物は、
質のいい水のタンクなのではないか。
そのみずみずしい果物を、なるべく加工を減らして、生のままかぶりつくのは、
「買いだめの消費」ではどうしてもできないことだった。
仕事からの帰り道、ふらっとスーパーに寄った。
入り口に並んでいたいちごに、どうしようもなく目を奪われたからだ。
ぱんっと張った実の魅力には抗えなかった。
そして、今までつらつらと買いていたようなことが脳内を巡った。
本能的にわたしは新鮮なものが欲しかったのだと気づいた。
店内はいつもより鬱々としたものを感じた。
お年寄りたちはカゴの中にカップ麺をたくさん放り込んでいる。
店員も客もみんなマスクをつけ、顔を下に向けている。
きゃっきゃとはしゃぐ子供がいない。
わたしのカゴの中には、新鮮ないちごがふたパック。巻きが緩くなったキャベツがひとつ。まっかなサンふじよっつ。
ずっしりとした重さが嬉しかった。
トートバッグに果物たちをいれて、帰路について。
マンションの階段をあがるとき、ああ、換気をして布団カバーを全部洗おう、そう思った。
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