【論述】常識論
世の中に蔓延っている"常識"と言う幻想は、時代や場所によって異なる。
終身雇用の神話は崩壊した。
この日本で根深い問題であった学歴社会や年功序列制度も、外資系企業の進出で崩れつつある。
"女は男の3歩後ろを黙って着いて来い。"と言う封建時代の負の遺産も"草食系男子"・"肉食系女子"で逆転した。
日本で決してクチにしない芋虫も、何処かの森の奥深くの原住民にとっては貴重なタンパク源である。
戦場では"人を殺した数"が多ければ多いほど"英雄"になれる。
アメリカのグランドキャニオンには、転落防止の柵がない。
"落ちたら自己責任で。"と言うのが真意なのである。
これが日本であれば、やれ"安全対策がどーの"だの、"責任問題がどーの"だの、自分を棚に置いて、まず人に責任転嫁して保身に走る。
結局、自分の中にある"モノサシ"を基準に"普通"と言う定義をしているのに過ぎないのである。
しかし、その"モノサシ"はあくまで自分の基準であって、他人には通用しない。
日本は、"長いものには巻かれろ"や"ミギニナラエ"と言う価値観が根深く、周りと同調して安心している国民性なので、まだその"モノサシ"が周りの他人に適合しやすいが、それはあくまで"出る杭は打たれる"になりたくないだけに過ぎないのである。
俗に言う「赤信号、皆で渡れば怖くない。」と言った心理である。
これはとても悪しき日本の国民性である。
それでは、皆で渡って全員、車に轢かれてしまったらどうするのでしょうか?
人によっては、恋人にフラれて自殺する者も居るだろう。
端から見れば、『なにも自殺しなくても、他の人を探せば良いのに。』と考える人も居るだろう。
しかし、その人にとっては、"別れ"="死活問題"だったのである。
したがって、安易に自分の価値観を人に強要してはならない。
そして、我々を束縛している常識というモノは、妥協を生み、建設的な思考を奪う。
結局、常識は"世間体"と表裏一体なのである。
この世界には、常識を超えた時代や場所によって左右されない法則が存在する。
俗に言う"真理"というモノである。
但し、それは1つだけとは限らず、様々な法則が存在する。
その法則を追求して、悩み、迷い、模索しながら生きていくことこそが"生産性のある豊かな人生"なのではないだろうか?
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