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永久凍土、ここがユートピア。

偶然なのか、久しぶりに冬だなぁと実感せざるを得ないくらいに雪が降った日に、おいしくるメロンパンのUtopiaがリリースされた。

今日も雪道を走る車の後部座席に乗ってUtopiaを聴いていた。「嗚呼 遥かなハリボテの空。」少しだけこの曲から私が思ったことを綴ろうと思う。


私は現在車の中、暖房が効いていて、とても温かい。共に乗車しているのは家族、みんな冷え性。
帰る家には二重窓、床暖房、エアコン、炬燵。
もっと寒い地域なんかとは比べ物にならないが、
冷え性の私からしたら外は永久凍土。
そしてこの暖房の効いた車内や家の温度と、
あったか〜い飲み物なんかを欲する。

私はこれをその場しのぎの暖かさ と思う。
本来の暖かさはきっと春のことを指す。



それから文才のない私は駄文を重ねたレポートをなんとか教授共へ送りつけ、長い春休みを迎えた。
帰省していて、好きな人たちに会えない私は精神状態がまぁ悪い。一人でいるとただ悪い方へぐるぐると思いを巡らせることが多く、また日々に進捗が感じられなくて息苦しさを覚える日々だ。「春休み」と言えどクリスマスより増す寒さだけではなく、こんな憂鬱の中でも息継ぎしている。

それとどうしても「春休み」が苦手なのは、これから訪れる3月という季節、春は前向きに、日に日に増すあたたかさや明るさが肯定されるため善とされるような感じがある。でも毎年変わる何かだったり、変わって欲しいのに変わらない何かに、高校時代はよく部室で泣いていた。家を出るときもお腹が痛いから休みたい、でも行ってくるね なんて泣いていた。おかげで中学高校では卒業時にきちんと皆勤賞を得た。
あたたかさによる自助努力のしやすさを理由に冬よりも手放されているような感覚がある。

そんな季節を少し気が早くも思い出す。結局どうにかやり過ごせてしまって「今年の冬は寒かったね」と笑い話にしてしまえる、そんな春を待望する。その場しのぎな暖かさの中で、



春に 「恋しているかのように」。

ナカシマさんのこの言葉選びはかなり狡い。
ナカシマさんのような人が軽率にこの言葉を選んだとは思えない。


少しだけ私の恋愛の話を聞いて欲しい、あの帰り道みたいな。
思うと自分の想いを昇華する恋ばかりしている。好きになった人には恋人がいたり、想う別の人がいたり、私と同じ気持ちではなかったり、異性でないことも、一度だけあった。

それから最近は、芸術や表現そのもの、それを成す人に対して。バンドマンと付き合いたい、とは違う気がする。そのギターフレーズ、その歌詞の言葉選び、その息遣い、その目つき、その色遣い…といったものに対して。

決して報われることのない片想いだと思う。自作した石像に恋したピュグマリオンに対するように、神様私にもその手を差し伸べてくれよ。

「欲して、恋しているかのように。」

ナカシマさんの言葉は詞というより詩であるので、この恋という言葉選びになんらかの思い入れがきちんとあるのだということを思うと昇華の恋ばかりの私も救われる。ナカシマさんの恋もきっと容易く手に入るものではなかったと思う。

お金で買える他の欲を満たしたところで決して満たされない、絶えない、等価交換も叶わない。次の季節への、あたたかさへの渇望も同様に恋である。



さて、ここまで私の最近の事情を交えつつ、歌詞について思うことを好き勝手に綴ってきたが、つまるところ、
ナカシマさんの歌う「ユートピア」は、永久凍土を指すのではなく、永久凍土の中に存在する、永久凍土の中で脳裏に浮かべる、裏腹なあたたかさや希望を指すのではないか。
と、ここで漸く、一つ考察らしいことを言ってみる。

残酷なことにこの「ユートピア」とは「空想された理想の場所」のことを指す。


ということは、
MVの冷たい都会の中のあたたかい色遣いの部屋も、
アートワークの温かいペットボトルの中身も、
暖房が効いた室内も、
初めて見る世界や春への希望も、
厳しい冬のなかでは全部ユートピアということなのだろうか。
厳しい現実のなかではそれはただ理想でしかないのか。存在し得ないのだろうか。

そんなことナカシマさんに歌われてしまったら全て諦めてしまいそうだ。



しかし不安がっていても、逆に期待を馳せていても
春はもうすぐである。きっとどうにかやり過ごせる。

響く心臓の音が近い。

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