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23歳とインフルエンザA型になりました

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痰が絡む咳、息苦しさ、体が震えて手足が麻痺する寒気、関節痛
母の、死ぬ前の症状と重なって怖くなる。症状が怖いのではなくって。わたしのはただのインフルエンザだから2日ほどで症状は治まるけれど、いつまで続くかわからない母の苦しさに対し「頑張って、大丈夫、泣かないで」と他人事になっていたこと、わたしが被害者であるような面をして逃げたいと泣いていたこと、逃げていたこと、あまりにも愚かで、殴りたくなる。(大学とか、京都とか、ライブとか、行っている場合じゃなかった。わたしが救われてはいけなかった。)





して欲しいこと(梅粥だったら食べれそう…等)を言うのにも上手く発せられなくて、父はうんざりした顔をする。
母はどんなだっただろうかと思い出す。
風邪をひいて熱を出した時、決まって「なんで風邪ひいたと思う?」と訊かれた。それは母の言うことを聞かずに髪を乾かさずにテレビを見ていたからとかそういうことで、ある種お説教だった。しかし決まって中華風味の卵粥を作ってくれて(食欲がなくてもこれだけは食べられた)、ちょくちょく様子を見に来ては本を読み聞かせてくれたり、レンタルビデオショップでジブリやらディズニーやらを借りてきてくれた。わたしには6歳離れた弟がいて「お姉ちゃん」と言い聞かせられた幼少期を過ごしてきたが、体調を崩すと末っ子のようにこども扱いしてもらえることが、わたしにとってひとつの悦であった。(たしか最果タヒもなにかでそんなようなことを言っていたな と思う)





職場でのこと、しんどいですと言い出す前、窓口当番で、税金の納付書払いの対応をした。
老いた男性がぐしゃぐしゃになった納付書と一万円札を出した。「一万円からで宜しいですか?」と訊くと、「年金暮らしでこれしかねぇだよ、このお釣りであと何日かを生きてくんだ、おれもう自殺しようかと思ってるだ」と言われた。なにも答えられなかった。どうしていいかわからなかった。熱があって頭が回らなかった なんてのは言い訳で、何も言わなかった、聞こえないふり、無視、無関心が一番だめなことだ。



油断は禁物ですが昨夜40度あった熱が37度代まで下がり、その他諸症状もかなり治まった。昨日、早退前に、「せっかくのお誕生日なのに…」と、職場近くのケーキ屋さんの白い箱から選ばせてもらったチーズケーキを食べる。昨日受け取れすらしなかった「お誕生日おめでとう」のメッセージに既読をつけていく。ありがとう。(元気な時にお返事します、ありがとう)

わたし、本当にこのまま生きていていいのだろうか、と最近、また思ってしまっています。いや、もっと正直に言うと、消えてしまえたらいいけど、死ぬのは難しいし、どうしたらいいんですか  ですね。

母が亡くなってから半年が経とうとしている。甘さに縋って紛らわしていた渦中の苦しみや悲しみの解像度がここ最近で一段と上がった。

母がいなくなって、迷惑を被ってもこの人は無条件に許してくれるんだろうな と思えるようなひとが、いなくなってしまった。(上手く言えないけど、わたしの家庭では の話かもしれないのだけど、親であるひと と 母であるひと は違うのだ。)もう、だれにも迷惑をかけられない。

にもかかわらず、かけまくっている、どうしようもない。4月の後半からずっとその連続で気が落ちている。
例えばその対象となるのは、わたしに直接の関わりのない人でもそうで、例えば電車で隣り合わせた人なんかも、そこに含まれる。車の運転が苦手なのもこういう理由なんだろうと思う。どこにでも右折専用信号が欲しい。
それはそうとして、似たようなミスを繰り返し上司の仕事を増やしたり、一年で一番忙しい一週間の山場でインフルになって欠勤したりしている。だめだ。(真剣に、職場に何を持って行けばいいだろうか、何を持っていっても仰々しいだろうか)
社会人になって早々残業続きの日々で帰宅すれば疲弊して機嫌が悪く、インターネットでも実際に友達を前にしても「苦しい」ばかりを吐いている。こんなんで、いいわけがない。
信頼の保ち方とかを、もっとちゃんと学校で学びたかった。

ありがたいことに(職場のひとたちを含め)わたしの周りにはやさしいひとがたくさんいて、「大丈夫」をわたしに向けてくれる。ただ、その「大丈夫」の裏側に遠慮や無理をするみたいなことがあることが、どうしようもなく今のわたしを苦しめる。
結局わたしが苦しみたくなくて、わたしのために相手を想っているような素振りを見せている、みたいな。



診断されていないから確かではないが、うつ状態に陥ってしまってから、言葉以外何もいらない と思っているのだが、いざ差し出されると卑屈になって上手く受け取れなかったりする。なんて可愛くない奴なんだろうね。

苦しさの話をすると、「そういうふうに考えない方がいいよ」とアドバイスを受ける。そりゃあそうだと、思う。
ただ、できない、手放せたら楽なことをわかっていながら、苦しんでいることに快感を覚えていることを否めない。自分でも意味わからないけど、わたしが苦しんでいれば、他の苦しんでいる(すきな)ひとたちと同じでいられるというか
もしかすると、そうやっていることで自分に加害性がないことを証明したいのかもしれない、実際は肥大化した被害妄想、過剰防衛のなかで無意識を言い訳にする加害性の塊でしかないのに。総じてエゴです







どうしようもない文章だ、でもどうしようもないこれが23歳になったわたしです。(最低だ と歌うエイミー(八月、某、月明かり/ヨルシカ)は実際にリスナーを傷つけただろうか。この文章が誰も傷つけないことを祈る。)
自己憐憫なんかではなく、事実としてのわたしだ、枕詞のように「母がいないから」と言ってしまうが、もう誰にも嫌われたくない、これ以上ひとがいなくなったらわたしはわたしを保てない
ただそれ以上に、
上述の通りである。

インフルエンザが治れば、わたしの知らぬ間に月末が終わって残業がなくなって心に余裕ができたらこの憂鬱はなくなるのか、23歳のわたしがどんなわたしであるか、わかりませんが、早く屈託のない大丈夫なわたしになりたいです

読んでくれてありがとう、不快にさせていたらごめんなさい

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