正義と、自由と、人権と。〜マイノリティの立場から発言してみる〜

書こうかどうか迷ったけど書いちゃう。

最近、感染対策が多くとられているお店には行きたくなくなってしまった。
どう考えても、対策だけが一人歩きしている。

検温に対して非常に嫌悪感(シャレじゃないよw)を抱くようになってしまったからだ。

お店の中にいて、他のお客さんがいる前で、もし熱があったら(その熱も何度以上で判断するのかも不明だし、そもそも最初の定義では37.5℃以上が4日以上続いたら疑いがあるのではなかったのか)、医療従事者でない人に熱を計られ、「出て行ってください」と言われるのだろうか。あのおでこに向けられることへの違和感、そもそもあの非接触体温計など大した精度もないと思うのだが、計っている人がもし熱がある人がいた場合、本当に「出て行ってください」と言う勇気を持ってやっているのかということが疑問に思えたからだ。
パフォーマンスにしか見えない。ただ熱がないことを確認して安心しているようにしか見えないのだ。
低体温の方がいろんな病気にかかりやすいのに、平熱が高いことを不安に感じるように思わされるのはいかがなものかと思う。
本当に熱があったら、自分は外で食事をしたり遊んだりする元気などないと思うのだが、今までそれが普通だと思っていたことがもうそれは受け入れられず、たったこの半年ほどで、熱を計らないと信じることができないという風に変わってしまうのだろうか。

そして自分的に一番受け入れがたいことがそれをやっている人が少しも悪びれた様子がないように見えることである。「しょうがなくやっている」という雰囲気を感じないのだ。
「させてもらっても良いですか?」という確認はない。「お願いします」という表示しかしないのに、半強制的である。
なんで初めて会う人に体温を計られなければならないのだろう。自分の身体に関わることなのに。
私は今のこの動きは管理・監視社会に向かう動きだと感じているから、これもその一つと捉えている。誰かに管理されることに慣れさせられてるんだろうなーと感じてしまう。

除菌もお店によってそれぞれ思いがあって、何も置いていないところ、ただ置いてるだけで使いたい人は自由に使ってくださいというところ、「ご協力をお願いします」とは表示するけどするかしないかは本人が選べるところ。
声をかけられて、するように促されるところ。手を出すように待たれてふりかけられるところ。
私は除菌は自らの常在菌まで殺してしまい、菌への耐性がなくなる恐れがあるため、極力避けているし、避けたいと思っているから、せめて「する/しない」を嫌な気持ちにならずに選びたいなと思う。
アルコールで手が荒れてしまう人もいるだろう。

マスクを付けてなくても入れるお店がほとんどなのだけど、対策を多く取っているところでは「マスクしてください」とか「マスク持ってないですか?」と言われたりする。
仕事のマニュアルなのかもしれないけど、ここまでポリシーを持っちゃってる自分にとってはその「悪気のない」言葉はとても辛いんだよね。

そもそも、「なんでマスクをしなきゃいけないのか」という疑問を持っているだろうか。議論がされた上で決められているだろうか。合意形成がされているだろうか。

私は自粛などはしていないので、今まで通り外出しているし、してきたが、街で見かけるほとんどの人が「マスクはしている」が行列には並ぶし飲食店には入るし必要なものは買いに来る。「マスクはしている」が、そこまで過剰な対策を求められるほど気にしているようには正直思えない。

私は今社会で行われているこれらの行為に、非常に疑問を感じているのだけど。
多くの人が受け入れているのが実態かなと思う。(でもきっとこの「受け入れている」にもいろんな考えがあって、自らすすんでやっている人、特に何とも思ってない人、言われたらやる人、やりたくないけど「しょうがない」と思ってやってる人、などいろんな人がいるんだろうなって考えられるようになった。)

少し前までは、お店にも客を選ぶ権利はあるのかも。だったら、どうしても行きたいお店であれば、やらない理由を説明して受け入れてもらうか、こちらがそれらの行為を受け入れざるを得ないのかなと思っていたが、なんかもう、そこまでしてそのお店や施設に行きたくなくなってしまったのだ。

これは自分が仕事をしている中で得られた経験で、自分自身の反省も踏まえてなのだけど、自分たちは「正しいことをやっている」とか、マニュアルやルールに対して疑問が浮かばず、「そもそも何でやっているのか」ということを考えていない人に、反対のことを言ってもクレーマーにしか映らないだろうなと思う。と言いながら、私もそれらの対策に対する拒否反応が自分の中ですごくて、もう最初から嫌な気分になっているので上手く話すことができる気がしないのだ。

いろんなところで、マスク、除菌、検温…
私には、踏み絵を踏まされているように感じる。

飲食店に行くのは、ただ食事をするためだけに行くのではないから。
店員さんに会って、店員さんと話したりすることも楽しみの一つで、美味しいものを食べて嬉しいと思うまでが目的なのだ。
でももう入口からその目的が果たされない。嫌だと思いながら嫌なことを受け入れて、嫌な気持ちになって美味しいものを食べても美味しく感じないのだ。

さまざまなレジャー施設も同様。
楽しい気持ちになるために行くのにもう最初から楽しくなく、行っても嫌な気持ちにしかならないのだ。

おそらく対策を取っている人たちは自分たちがなぜその仕事をしているか、という本来の目的を忘れてしまっている。
自分たちのサービスを通して、お客さんを笑顔にする、楽しいと思ってもらうことがサービスの本来の目的であったのではないかと思う。それなのに大企業は行政への忖度だし、いろんなところで運営すること、自分のところから感染者を出さないことが目的の一つに加えられてしまっている。このことは経済社会がもたらした弊害であるように思う。

これは緊急事態宣言による自治体からの要請で「営業が出来ない」ということが非常に厳しかったことはあると思う。営業しなかったらお金が入ってこない。生活できない。そんな当たり前のことを行政がやる。それなのに誰も怒らない。そして行政が気づかない。

「対策さえしていれば」営業できる
「対策さえしていれば」感染者が出ても叩かれることはない

感染者への差別、自粛しない人への無意識の差別が行われてきた中で、

「自粛しなくていいムード」に少しずつなってきたのだけれど、

その結果今起きていることが、
「対策さえしていれば」自粛しなくてよい
という思考回路であり、
対策をしない、取らない人への差別に移り変わってきているような気がするのだ。

私はこれらの対策が、人々の健康を損ない、我慢を強い、人と人とのつながりを奪い、会話の機会を失わせるものであると思うから、

「対策さえしていれば」とは思えないんだよね。
経済は回り社会は前に進むかもしれないけれど、他にすごく大きな大事なものを犠牲にしていないかなって…。

いったいウイルスで何人死んでいるというのだろう。
持病があり死因は別であっても陽性判定が出れば死者数としてカウントするなど死亡者の水増しも起きている。

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自ら死を選ぶ人がこんなにも増えているのはなぜなのか、会社がこんなにも倒産しているのはなぜなのか。
死とは感染症のみがもたらすものではないはず。

目に見えないウイルスが怖いから、
目に見えるマスク、除菌、検温で判断しようとする。
たったこの半年で、ここまで人を信じられなくなってしまうということ。

ありのままの人間の姿を受け入れられない。
マスクをしている人でないと安心できない。

マスクをしなければならない理由として、「マスクをしていないと不安に感じるお客さんがいるから」というのがあるそうだ。
マスクをしないというこちらの自由は受け入れないのに、マスクをしている人の不安には寄り添う。どうして全員がマスクをしている前提で外に出るのだろう。お店に来るのだろう。自分の不安を払拭することを他人に求めている。
私のように考える人間、マイノリティの立場にいる人たちは排除されるということになる。人にはそれぞれ考えがあるし、その人の人権を尊重をしないのであれば多様性を認める社会などにはならないのではないかと思う。
と言いながら、私も多様性を認めない人を認めないという矛盾に陥っているのだけど…。

対策をしていないと万一感染者が出た場合に叩かれるから。責任が取れないから。という。
見ず知らずのされるかどうかもわからないクレーマーを恐れて目の前にいる客の自由を奪わないで。あなたが恐れているのはウイルスではないよ。

自分の身体のことに責任を持てる人など、自分以外にいるはずがない。自分しか自分の身体のことはわからない。なのに社会全体で責任を取ろうとしている。

マスクをしていない人は他の人がマスクをしようがしまいが関係なく行動しているだけ。

ここまで対策が強化され、一人歩きしてしまったのは、
それは、ほとんどの人がマスクをしているからだ。
サービスに携わる人たちは、それを「ニーズ」として捉えているのだ。
このように、ほとんどの人がマスクをしていることが、対策の過剰化を促していると思う。マスクをすることは、その相手にもマスクをすることを求めるというメッセージに必然的になってしまっているのだ。
私はサービスをする側の方にもできればマスクを外してもらいたいと思っている。それは常にマスクをして仕事をするなど呼吸を阻害し身体面に悪影響を与え、心理的にも非常にストレスであろうと感じるからだ。

私はこんな風に考えているから、日常生活を送る上でも嫌な気持ちを抱えながら過ごしていた。
マスクしていない人を見ると嬉しくなったり、マスクの人が増えてるように感じたらまたしんどくなったり。

だけど、その矛先をその人に向けたらいけないのだ。
それこそ望み通りの分断社会になってしまう。

特定の誰かに向けない。そもそもこういう事態を引き起こしているのは何故か。より大きなものの存在に目を向ける。そして自分に。

私は今の社会に対する危機感や焦燥感に似たようなものを、かつて感じたことがあった。
安保法制が可決されたときである。
そのときは、権力者と国民という対立構造であったが、今はそれが市民と市民の間で起き始めている。
マスクをする、しないという分断。
検温というジャッジ。

結局世論が高まってるときにしか物事を考えてなかった、何も行動に移してこなかった結果が今こうして降りかかってきたのだと感じている。
人間は都合の悪いことは忘れる。
でも、忘れてはいけないのだということを、今回身をもって痛感した。

そして初めてわかった。
正義と正義のぶつかり合いこそ、一番厄介だということを…。

人は人それぞれ、いろんなことを考えている。
自分と全て同じ考えの人など誰一人いないし、
それはその人と「会話」してみないとわからないことだ。
会話がされないとその人が何を考えているのかわからない。自分の頭で「こう考えているのだろう」と決めつけてしまうのだ。
それは私自身もそういうところがあるのだろうと思う。

マスクをするとかしないとか、何か目に見える行為だけでその人となりを判断することはできない。

今こそ、「会話」することが求められているように思うのに、飲み会や、様々なコミュニケーションの機会が奪われていってしまっている。

ただ、「こわい」とか、
「わからない」とかですませない。

「こわい」と思ってるけど、ほんとにこわいのかな?
「こわい」と思わされてるんじゃないのかな。
「わからない」と思うんだったら、
「わからない」ままにしないで、
自分なりに調べて、自分で考えよう。

気づいた人から、周りの人に、少しずつでも話してみよう。

私は、「おかしい」と思いながら、「おかしい」ことをすることが、こんなにもしんどいということを、人生の中で初めて知った。
「少数派」の立場に初めて立ってみて、今の世の中がこんなにも生きづらいことを知った。

社会が変われば、厳密に言えばそれを信じている人の数が大多数になってしまえば、世の中のルールも変わってしまうということ。

今まで止まると信じていた赤信号が
赤信号みんなで渡れば怖くないと信じ
私には「止まる」のままなのにみんなが一斉に渡り始めているように見えるのだ。

法律を守るのは、私たちに与えられた投票するという権利を行使して選ばれた議員により、国会で決められたものであるからだ。
(実態がどうであるかは別にして)つまりは民意に基づくものであるという理解はできるのだ。

だからこそ、選挙で投票するという行為が非常に重要になってくるのだけれど。

仕事をしている中でも、法律というものは、その趣旨と目的のもとに、合理的に定められていると思えるからこそ、法律を守る必要性を感じられるのだけど。(現実的には、もっともらしい理由がついて、利権とカネのために作られたようなものもあるのだけど)

(今回のことで、そんな風に、「見たものが全てではなく、何か裏があるのではないか」と世の中や物事を自分なりにだけど捉えることができるようになった。)

でも、今はまだルールですらないのに、人々がいつの間にかそれを受け入れ、ルールと捉え、
「お願い」という名の下に
同調圧力による排除がおきているのではないだろうか。

自らは手を下さずに、国民の間で分断がすすむ。

シナリオ通りに事がすすんでしまっている。
「なぜこんなことをしているの?」と思うかもしれない。
以前はわからないと書いたが、権力者の立場に立って考えてみた。
自分の思い通りに物事を進めようと思ったら、自分の言うことを「何も疑問を持たずに」聞いてくれる方が良いからだ。意見も、アイデアもいらない、ただ反発せずに言ったことをそのままやってくれる人たちの方が都合がいい。
まるで、喋らずに機械的に動くロボットのように…。

私はマスクという免罪符は要らない。

おそらく、今では「感染したくない」よりも「感染させたくない」という気持ちからマスクをつけている人の方が多いように思う。

万が一の確率のために(感染(正確にはPCR検査で陽性判定になっただけ)してもほとんどの人が無症状であったり治っている)、ほとんどの人が常にマスクをつけて、息苦しい思いをして、健康を害している。

PCR検査さえ受けなければ、コロナにされることはないのに。

「感染が拡大」してるんじゃなくて、検査数大幅に増やしてるだけでしょ、、。

https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

陽性者数を人口で割ってみて。
陽性者数を検査者数で割ってみて。
死亡者数を陽性者数で割ってみて。

ものすごい低い確率ではないですか?

感染する可能性よりも、常にマスクをして健康を害するリスクの方が高いと私は考えます。

一面黒塗りの専門家会議の議事録で、いったい何を信じろというのでしょうか。

この「他人のために自己犠牲を図る」という国民性が露わになったのだけど、

私は「みんなもっと自分を大切にして!」と言いたい。
自分で自分のことを大切にできない人が、他人を大切にできるはずがないし、
みんなが自分のことを大切にできたら、それがみんなの幸せにつながると思うから。

みんなが被害者にも加害者にもなりたくないのと同様、私はたとえ差別されてもこの同調圧力の加害者にはなりたくないから。

一生、マスクをし続けるのですか?

この国の総理大臣は、「国民の皆さん、もうマスクを外していいですよ」などと言うはずがない。
総理大臣自らマスクを国民に配るような国なのだから…
(いやむしろ、早く言ってくれたらその方が有り難いのだが。)

顔を隠して生きない。

私には一生マスクする覚悟などないから。
今、外せなかったら、いったいいつ外すのだろう?

マスクをしていて顔が見えない、表情がわからない、声が聞こえない、コミュニケーションが上手く取れない。健康上の被害だけじゃない、すでにいろんな問題が起きているよね。

このまま対策を厳しくするお店が増えてしまったら、私は、いろんなサービスを受けられなくなるんじゃないか…?生活していくことができなくなるんじゃないだろうかという危機感を抱いている。

だからこそ、私は今の"消費しかしていない"立場であることを非常に危ういと思ってるんだよね。

嫌だなと思っても、受け入れるのも一つの考え方。
ここまで頑なになる必要もないのかもしれない。
私も正直口で上手く伝える自信がない。
だから文字に逃げている。
私が不寛容になればなるほど、一緒にいる人の選択肢を奪うことに繋がっているとも思う。
子どもにとっては、今のこのときしかできない経験もあるのかもしれない。

でも、これはきっと神様が教えてくれた機会なのだと思った。
「欲を捨てなさい。」
「あなたが目指している世界には、その選択は必要ないよ、」と。

そう考えたら、ここまでこだわってる"自由"を手放してまで、求める自由ってなんなんだろう。って思えてきたんだよね。

そんなことを考えているとき、マスクをしていない店員さんに出会った。
20代前半ぐらいの、若い女性。
「この子はきっとポリシーを持ってやっている。」と感じた。
「そして強い」そう思った。
ほとんどのお客さんがマスクしている状態で、「マスクをしない」という選択を取ることは非常に勇気があることだと思う。
彼女の勇気に私は非常に心を打たれた。
「あなたが私を受け入れてくれるなら、どうぞお店に入ってください」という姿勢だ。
そしてこんなときだからこそ、お客さんとコミュニケーションを取ろうとしているのだろうという気持ちが感じられた。ただ会計を済ませるだけではなく、一言、声をかけてくれたこと。

そんなことが非常に嬉しく、心がいっぱいになる気持ちがしたのだ。

そう考えたら、排除されていると思い込みしんどくなっていた自分を、受け入れてくれるお店は他にもたくさんあることに気づいた。

何気ない一言でも、会話をしようとしてくれることが、こんなに嬉しいことだと知らなかった。
店員さんが笑顔で接してくれることが、こんなに嬉しいことだと知らなかった。

受け入れてもらえないと嘆くことより、
受け入れてくれる人がいることを有り難いと思えるようになった。

今無理して行く必要はない。
いつか気づいてやめるかもしれない。
そのとき、応援しに行けばいい。

自分からわざわざ、排除されるようなところに行かなくていい。
マスクをしなくても、除菌をしなくても、熱があろうとなかろうと、広い心で受け入れてくれるお店はたくさんあるのだから。

そう思えるまで、少し時間がかかったけれど、、

こんなことを書いてもしょうがないのかもしれない。
不快に思う人がいたら申し訳ないなと思う。
ただ、こうやって書くことで自分自身の矛盾に気づいたり、自分の気持ちを整理することにはつながっている。
自分自身も、同じ立場の人がいると思うだけで勇気をもらえるし、「共感」ってやっぱり強い。少数派で生きていく辛さを味わっている人にとって、「こういう風に考えている人もいるんだよ」っていうのを知ってもらうことで、ほんの少しでも勇気を与えることができるのかな…?なんて思っている。

いろいろモヤモヤして悩んではいるけれど、
私は「おかしい」と思いながら、おかしいことを受け入れて生きるよりも、
自分が正しいと思う道を選択して生きていく方が楽だから。

ただ、不服従の精神で生きていくだけ。

そんなことで判断されるかどうかを悩むより、そんなことで判断しない人と付き合っていけばいいし、そんなことで判断されるような人間ではないくらい、信頼される人間になれるよう生きていけば良いのだ。

私の周りには、有り難いことに、それを受け入れてくれる人がいるのだから。

こんなことを日々鬱々と考えていたとき、
「はぁ…」と溜息をついていたら、

子どもから「つかれた?」と聞かれてしまった。

私が言いたいことは

子どもたちにマスクをさせるなということであり

こんなおかしな社会を子どもたちに残したくないし、残していいのか

ということ。

ただ、それだけである。

#新しい生活様式反対
#マスクをしない勇気
#自分から変わろう