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【セリアン/Therian】の歴史

【セリアン/Therian】の歴史は古く、世界中に散見される動物変身譚と深い関わりがあるとされています。日本でも動物変身譚は数多く記録されていますし、【セリアンスロピー/Therianthropy】が受け容れられる文化的土壌は元々日本にも十分に存在したと考えられます。
 ですが、ほんの15年前までは、何故か日本のセリアンスロピーでは「狐憑き」「犬憑き」の例が引き合いに出される事が多く、「憑依」という【セリアンスロピー/Therianthropy】とは全く別の現象に置き換えられて解釈されている場合が大変多く見受けられました。これはおそらく【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】という精神疾患と【セリアンスロピー/Therianthropy】が同一視されて日本に「輸入」された事により起きた現象であると考えられます。
 この項では「クラシックな人狼症」について軽く触れた後、【セリアン/Therian】のコミュニティの歴史と【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】についてお話ししようと思います。

■「クラシックな人狼症」について


 中世ヨーロッパに於ける「クラシックな人狼症」は、実は一種の「薬物中毒」だと言われているようです。
 ライ麦パンに寄生した麦角菌を人々が口にした事によって幻覚作用に苛まれ、結果として山野を駆け回ったり「自分は狼に変身した」、「自分は人狼だ」と証言したりといった症状が現れたようです。残念ながら「クラシックな人狼症」の患者たちは魔女裁判や人狼裁判にかけられ処刑されてしまったとの記録が残っています。
 近代に入って食品の衛生管理が劇的に向上した事と、科学技術の発展が根拠のない迷信や漠然とした恐怖による支配から世論を解放した事もあいまって、「クラシックな人狼症」はほぼ消滅したと言えるでしょう。
 しかし。1990年代になって、薬物中毒とは別の理由で「自分は狼に変身した」、「自分は人狼だ」と証言する人々が現れました。それが狼の【セリアン/Therian】や人狼の【アザーキン/Otherkin】たちです。インターネットの普及に伴う自己発信の機会がセリアンのコミュニティを形成しました。

■インターネット黎明期


 1990年代のインターネットにはまだSNSが存在せず、情報交換はBBSやチェーンメールで行われていました。そもそも当時のインターネットは電話回線を用いたISDNが主流で、長時間ネットを利用すれば莫大な電話代がかかってしまう上に、現代の光回線と比較すると1/1000以下という信じられないほど遅い通信速度しか出せませんでした。画像一つダウンロードするにも何十分も待たなければならなかったため、今のように誰でも手軽にインターネットを扱えるわけではなく、まして動画のような重いデータをダウンロードして再生するなど夢のまた夢でした。YoutubeもTikTokもこの時代にはまだ技術的に存在し得なかったのです。
 ですので、この時代のやり取りはほとんど文字データのみで行われていましたし、ネット上のコミュニティが大規模化する事もなく、情報が広範囲に瞬時に拡散される事もほとんどありませんでした。
 そんな状況の中、【セリアンスロピー/Therianthropy】の基礎を築いたのは1992-1993年頃に登場したUsenet上のグループ【AHWW(Alt.horror.werewolves)】であると言われています。

■【AHWW(Alt.horror.werewolves)】の隆盛


 残念ながら私自身は【AHWW(Alt.horror.werewolves)】が活動していた当時はまだ子供だったので、【AHWW(Alt.horror.werewolves)】に直接触れる機会はありませんでした。しかし、世界初のセリアンのウェブサイトである【AHWW(Alt.horror.werewolves)】の存在は現在でも多くの【セリアン/Therian】のコミュニティの間で語り継がれています。
 この時代からセリアンのコミュニティに在籍していた方々たちは、敬意を持って【グレイマズル/Greymuzzle】と呼ばれており、私も直接お話させていただいた事があります。

 しかし、【グレイマズル/Greymuzzle】の方々は今でもオンラインのセリアンのコミュニティに数多く在籍していらっしゃいますが、【AHWW(Alt.horror.werewolves)】そのものは残念ながら消滅してしまったと聞きました。理由は時代の流れと共により便利で手軽なSNSが台頭してきたため、Usenetそのものが廃れてしまったこと。そしてもう一つの理由は【AHWW(Alt.horror.werewolves)】内部で起きた争いだったと聞いています。

【AHWW(Alt.horror.werewolves)】のメンバー内には、自身の持つ動物の精神性を重視する方々と、【ファントム シフト/Phantom Shift】と呼ばれる「幻肢」の体感を重視する方々の2つの大きな派閥が出来ていたそうです。
 そして強力な【ファントム  シフト/Phantom Shift】の体感を「物理的に肉体が変化した」と誤認してしまった方々が「自分は【フィジカル シフト/Physical Shift】(物理的な肉体変化)に成功した!」と証言しだしたため、現実的に見て起こり得ない現象を否定する方々と激しい抗争になったと聞きます。
 そのため【フィジカル シフト/Physical Shift】について議論する事は現代に於いてもいくつかの【セリアン/Therian】のコミュニティではタブー視されています。そこまで大きな禍根と傷跡を【フィジカル シフト/Physical Shift】の議論はコミュニティに残してしまったのでしょう。この辺りは【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】にも関連のある話なので、後程詳しくお話します。
 やがて【フィジカル シフト/Physical Shift】の是非についての論争は【AHWW(Alt.horror.werewolves)】のコミュニティ外へと飛び火してしまったらしく、多くの無関係な人々から【セリアンスロピー/Therianthropy】とは「自分が人狼だという錯覚を起こす精神錯乱の一種だ」と誤解されてしまったと聞きます。
 その結果、無関係な人々から顰蹙を買って多数の荒らし目的の捨てアカからコミュニティが攻撃を受けたらしく、真面目な参加者ほどコミュニティから立ち去り、荒らしばかりがスパム行為を繰り返すという最悪な事態にまで陥ってしまったようです。
 そのため最早コミュニティとして立ち行かなくなり、1999年に【AHWW(Alt.horror.werewolves)】は解散されたと記されていました。まさに今現に日本で起きている状況と瓜二つの現象が1999年の米国で既に起きていたようなのです。

■【AHWW】解散後のネット空間


【AHWW/Alt.horror.werewolves】が解体された後、ネット上には複数の小規模かつ閉鎖的なセリアンのコミュニティがいくつも誕生しました。
【セリアン/Therian】は「コミュニティから去る」事はできても、【セリアン/Therian】である事を辞めることは出来ません。生まれついての自認だからです。
 やはり寄る辺もなく孤独に生きていくのは辛いものですから、自然と仲間を探し求めてしまうものなのでしょう。結果として【AHWW/Alt.horror.werewolves】ほど大規模にはならずとも、小規模なコミュニティがネット上のあちこちに形成されました。
 私がお世話になった場所もその一つです。私が加入したての頃は、多くのメンバーがとても親身に私に接してくださったので、本当に救われた気分になりました。
 しかし、たとえ小規模かつ閉鎖的なコミュニティであっても、有名になって人数が増えると細かな信条や思想の違いで対立が起きてしまうものです。
 そもそも【セリアン/Therian】や【アザーキン/Othekin】は犬も狼も狐も猫もライオンもハイエナも鳥もイルカもドラゴンもグリフォンもいっしょくたに「人間ではない」という特徴だけで無理矢理ひとまとめにされているに過ぎません。
 自認している種族ごとに大きな違いがありますし、【セリアンスロピー/Therianthropy】にも【アザーキニティ/Otherkinity】にも「絶対的に正しいこと」はありません。
 それぞれの種族やそれぞれの感性が違っていて当たり前で、違いを尊重する事こそが【セリアンスロピー/Therianthropy】と【アザーキニティ/Otherkinity】の真髄とも言える事なのですが、誰もがそれを理解し実践するのはとても難しいものです。
 ましてや言語の壁や文化の壁を超越して一堂に会すのであればなおのこと。「多様性の尊重」と口にするのは容易い事ですが、コミュニティの参加人数が増えるほどそれを実現するのは非常に困難になってきます。

■2020年代 セリアンを名乗るカジュアル層が突如増える


 その後、それぞれの小規模かつ閉鎖的なセリアンのコミュニティは揉め事と分裂を繰り返して弱体化していきました。
 コミュニティ内での争い事に心を痛めてしてしまった従来の真面目なセリアンはウェブサイトを去り、そしてそれと入れ替わる形で自らをセリアンだと名乗る若年層がたくさんコミュニティに流入してきました。
 しかし、それら若年層の多くは【セリアン/Therian】について真剣に悩んだり考えたりはしていませんでした。自分が人間以外の動物であるという自認は薄く、あくまでもその時々の気分で「この動物が可愛いからそれになりたい!」というファッショナブルな感覚で参加し始めたのです。
 彼ら彼女らにとって【セリアン/Therian】は生きていく上での葛藤や知見ではなく、ネット空間における承認欲求を満たすための手段であると感じました。
 それまでの【セリアン/Therian】のコミュニティの方針や理念からは考えられないほどの軽いノリでしたが、しかし軽いノリ故に参加のハードルも低く、若年層の人口は瞬く間に増加しました。
 その結果、「自分の本質を真摯に見つめよう」という元来の【セリアン/Therian】よりも、むしろ「なりきりチャットやロールプレイの延長線で趣味としてセリアンスロピーを楽しもう」というカジュアルな人々の人口の方が増えてしまい、そういった人々にコミュニティが半ば乗っ取られてしまいました。
 
これが、今現在 世界の【セリアン/Therian】文化で起きている現象なのです。

■そうして日本に輸入された「テリアン」というカタカナ造語


 日本に輸入された「テリアン」像は、このコミュニティを乗っ取ったカジュアルな若い世代の文化だけをもとに形成されたものと考えられます。現在のショート動画サイトで流行っているテリアン文化からは【セリアンスロピー/Therianthropy】の最も大切な本質が抜け落ちているような気がしてなりません。
【セリアンスロピー/Therianthropy】は「自分自身を飾り立てる装飾品」ではありません。むしろその逆で、「自分自身を飾り立てる装飾品を何もかも捨て去っていっても最後に残る自分自身の核」です。少なくとも本来の【セリアンスロピー/Therianthropy】とは、「死んでも化けても生まれ変わっても絶対に手放せない自分自身そのもの」だと言えます。それほどシリアスに【セリアンスロピー/Therianthropy】について考えている方が、パフォーマンスの動画を投稿してらっしゃる人の中にどれほどいるものか、私個人としては正直疑っています。
 私同様に、【セリアン/Therian】についてこれまで真摯に向き合ってきた方々は現在のこの事態に強い危機感を覚えているのです。

■【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】について


 
少し時代は遡りますが、今のセリアンのコミュニティに大きく関わる出来事があったのでご紹介させていただきます。
 15年ほど前の話になりますが、実は一度日本に【セリアンスロピー/Therianthropy】に「似た概念」が輸入されるチャンスがありました。
 しかしそれは【セリアンスロピー/Therianthropy】そのものとしてではなく、【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】という「精神疾患」としてです。
【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】とは、【AHWW/Alt.horror.werewolves】の分裂騒動の際に「自分は【フィジカル シフト/Physical Shift】に成功した!」と主張した一派の妄想がさらに過激化して派生した「精神疾患」と言えます。
 具体的には、彼ら自身が掲げた「【フィジカル シフト/Physical Shift】に成功した」という主張を「正当化しなければならない」という使命感に駆られてしまったためか、迷信めいた儀式や薬物を用いて「クラシックな人狼症」を現代で再現しようとした結果、本当に自分自身が狼に変身したと錯覚してしまった一種の「病気」です。
 彼らの半ばカルト化してしまった小規模なコミュニティは、海外では【若造狼/Teen Wolves】と呼ばれ危険視されました。
 
SNSでよく見られる「フィルターバブル」と「エコーチャンバー」現象の相乗効果も、【AHWW/Alt.horror.werewolves】から隔絶されカルト化して自浄作用を失ったコミュニティ内で妄想を過激化させる一助になったのではないかと推測されます。「予言の自己成就」の心理作用に導かれるまま、彼らは一度滅んだ「クラシックな人狼症」を本当に現代に蘇らせてしまったのです。
 現在では、少なくとも海外では【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】の研究がかつてよりも遥かに進んでおり、【セリアンスロピー/Therianthropy】と【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】は明確に別のものだと扱われています。【セリアンスロピー/Therianthropy】はあくまでも「特徴」であり、【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】が「治療すべき病状」であると認識されています。
 しかし。15年ほど前に「自分は人間ではなく狼だ、それを理解してほしい!」という【セリアン/Therian】の真摯な悩みに対して、日本のとある精神科医が対応したと風の噂で耳にしました。
 精神科医の方が具体的にどのような治療を行ったのか定かではありませんが、少なくとも海外の文献も読み漁って治療マニュアルに記載された【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】を発見したのではないかと個人的に推測しています。
 15年前の治療マニュアルにどのような記述がされていたか定かではありませんが、少なくとも【AHWW/Alt.horror.werewolves】の内乱や、その後カルト化してしまった【若造狼/Teen Wolves】の起こした事件など、「治療とは直接関係ない歴史的経緯」については記されていなかったのではないか予測されます。
 ですから、担当医の方がその時 日本に「輸入」できたのは、ごく限られた【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】に関する情報のみだったのではないかと考えられます。
 そして日本国内に既に当時から存在していた概念で近しいものを探し、狐憑きや犬憑きなど民俗学の分野に回答を求められたのではないかと個人的には推測しています。(※ただ、もちろん私の個人的な憶測に過ぎず、確証はありません。)

 いずれにせよ。日本の【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】の研究は海外ほど発展しておらず、結果として「病状と対処法」のみを輸入しようとした際に言語の壁に阻まれて正しく伝わらなかったため、【セリアンスロピー/Therianthropy】=【臨床的人狼症/Clinical Lycanthropy】=「犬憑きや狐憑き」という連想ゲームのような誤解を招いてしまったと考えられます。
 ですから、15年前の日本では【セリアンスロピー/Therianthropy】よりもむしろ【ライカンスロピー/Lycanthropy】の方がまだ有名でした。
 しかし、これも【セリアンスロピー/Therianthropy】の歴史を鑑みれば、酷く倒錯した伝わり方をしていると私個人としては感じています。本家本元である【AHWW/Alt.horror.werewolves】ではなく、【若造狼/Teen Wolves】が起こした問題行動の方を輸入してしまったわけですから。

■まとめ~本来のセリアンとは~


 
ここまで長々と読んでくださってありがとうございます。
【セリアン/Therian】にとって肝心なのは「病気」という負の側面ではなく、むしろ「自らが抱えた動物としての自我とどう向き合うか」という前向きな考え方だと思います。
 そのために必要な前知識として、まずは【セリアン/Therian】についてのこれまでの出来事を紹介させていただきました。
 このセリアンの歴史は、当noteの他の記事を読む上で大切な情報となりますので、知っていただけると嬉しく思います。
 
 最後に。 
 非常に紆余曲折したセリアンの歴史ですが、現在のネット空間で起こっている現象をきちんとご理解いただくためには、どうしても説明しなかればならない事柄でした。
【セリアン/Therian】は、当事者にとっては人生を生きる上で真剣に向き合わなければならない自分の性質です。
 決して「誰かにウケたい」という動機で始める趣味でもなければ、現実逃避の手段でもないと考えています。
 「息抜き」ではなく「生き方」なのです。
 本来は当事者が生きるための助けとなるコミュニティや活動だったものが、承認欲求の土台と化してしまったことは非常に悲しいと感じています。

 非常にカジュアルなセリアン像の情報が錯そうしている今、残すべきは【セリアン/Therian】についての正しい知見であると私は考えています。
 そうしなければ、いつか本当に本来の【セリアン/Therian】についての情報がかき消されてしまうかもしれません。
 そうなっては、これから新たに現れるかもしれない本当の当事者を救うことができなくなってしまいます。
 繰り返しになってしまいますが、このnoteに残す情報が、本当に困っているセリアンのためになることを願っています。