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YO!heiさんどうしたの?ミテコヒステリー発動しちゃうよ
八幡・河西と共に毎回四人組アゲ今上ご一家サゲなズレた視点でヤフコメでも突っ込まれまくりな森教授の記事ですが、今回は一体どうしちゃったの?っていう記事をご紹介。
昭和から延々繰り返された「美智子様は平民というだけで良子皇后を筆頭に各妃殿下・常磐会から虐められた」というミテコ神話を初代宮内庁長の官田島道治の日記「昭和天皇拝謁記」を元に検証する内容です。
クリスチャンだった田島氏は、後任の宇佐美毅とともに宮中改革及び正田ミテコさんの入内を後押した人物です。基本的にミテコ寄りになっているのですが関係者の発言も絡めて読むとさりげなくミテコさんの伝統破壊のルーツを辿ってしまうからあら不思議(笑)
例えば昭和42年の記述に高松宮邸を訪問した際にに喜久子さまから東宮女官だった名和栄子の話に関する内容が
「こんなよめさん民間にもなし。〔美智子〕妃殿下衆人満座で人をしかり、皇后様のこともあまりよくいはず。大膳が夜食的のものを買ひにやらされる。Taxi代に困るとか。煩しいと思ふものは必ず買ふ」
東宮女官とは「皇太子妃の側近奉仕のことを分掌する。東宮女官長の補佐をする」役割でつまり皇太子妃の身近なエピソードを持っている方です。そして徳川将軍家と有栖川宮家の血筋を引く究極の上流夫人の喜久子さまの目線から見た昭和の皇太子妃のミテコさま像が赤裸々につ綴られています。
簡潔にまとめると「正田ミテコさんは人前で部下をしかりこき使い、陰で産まれながらの皇族であった良子皇后の悪口を言いふらす様な底意地の悪い性格で、欲しいものは何でも手に入れる金遣いの荒い嫁」って事ですね。
その底意地の悪さは戦前は群馬県の長者番付にも入らない家柄の正田家よりも更にド庶民な家柄の川嶋キーコさんが完全コピーしましたよ。
日記ではミテコ皇太子妃の義理の弟の義宮正仁親王の妃選びのエピソードも
「美智子妃」選定で何の影響力をも発揮できなかった常磐会は、皇太子の次弟である正仁親王(義宮(よしのみや)、現常陸宮)の妃探しに全力を挙げる。旧華族の女性のなかで適任者を探し、最後にたどり着いたのが旧弘前藩主、津軽家出身の津軽華子であった。1964年2月に婚約が決まる。旧華族の巻き返しであった。酒井は「義宮妃決定の重要ポイントは、皇后さまにあったとうけたまわっております。理性的で親思いの義宮さまが、妃は両陛下、ことに皇后さまに気にいっていただけるかたをと望まれたと伺っています」と書いている。
要約すると津軽華子さんは「母親思いの義宮さまも認める位優しく人当たりの良いお嬢様」という事が分かりますね。
そりゃ先に明仁皇太子の一方的なわがままで強いお気持ちで選ばれた正田ミテコさんは「義理の母親にいちいち反抗する可愛げの無い小娘」でしたから尚更津軽さんのお人柄に皆様も安心したでしょうね。
上記エピソードを検証すると正田ミテコさんは「平民だから蔑まれたのではなく、その人使いの荒さや苦より楽ばかりともにする」という点が平成初期のミテコバッシングより遥か昔から懸念されていたのです。
平成時代なら971庁のミテコ反論コーナーで細かなデータ付きで反論しそうな内容ですね(笑)
ミテコバッシングで一時タブーとされた昭和の皇太子妃時代のエピソードが今後も何かしらの形で噴出するのかある意味見物ですね。
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