人種のゆらぎと自称についてのわたしのスタンス

要点:ぼくのスタンスは別に純血主義だとは思いません。ネイティブアメリカンの土地に移住してきた白人をネイティブアメリカンとは呼ばないし、アイルランドに移住してきたイギリス人をアイリッシュと呼ばないのと同じようなことだと思います。(南米のケースはより複雑なので省きます。)

 ネット上で、非沖縄/琉球ルーツの人が、他人に"うちなーんちゅ"ではないと指摘された、あんまりではないか、という意見がありましたので、それに対する応答としてこちらの文を記そうと思います。この文では①なぜ僕は非沖縄/琉球ルーツの人を"うちなーんちゅ"と呼ぶべきではないと思うのか②仮に"うちなーんちゅ"を定義するなら何に注意すべきか、を示します。

 まず僕の意見をはっきりさせておきたいのですが、このためにアメリカの先住民の例を挙げたいと思います。例えば非先住民のアメリカ人が先住民の住む地域に住んでいるからといってその人は"先住民"とはなりません。
 一方で実際に誰が先住民か厳密に定義することも危険があります。もちろんそこにDNA検査や厳密な血縁図などを用いるのはよくない。エリザベス・ウォレン氏が自身の先住民ルーツを示すべくDNA検査を使って批判されたことがあります。
Elizabeth Warren Apologizes To Cherokee Nation For DNA Test : NPR
 ただ一方で、"誰でも自称すればその民族"とか、"その地域に住んでいればその民族"といったことでもありません。
 つまり重要なのは、DNA検査や血縁図に頼りすぎず、かといってだれでも名乗ればその民族マイノリティーだよ、といった曖昧な定義にもしないことです。特に後者は、アイヌ差別的なネトウヨにより、"アイヌは自称だ"と言ったデマとして使われるので、特に強調する必要があると思われます。

 もう一つの問題としては、例えば日本のような植民地主義的な政策をとった国においては日本人≠大和民族であることを示すことが重要である一方、沖縄人といった、少数民族に関して"沖縄に住んでる人はみんなうちなーんちゅ"としてしまうと、セトラーコロニアリズムなどに繋がってしまうの惧れがあるということです。民族としての沖縄人と、民族の沖縄人を超えた沖縄の人をそれぞれ指す言葉があれば便利なのかもしれませんが、特にこれに関してはまだ用語が確定していない部分もあるのは確かです。これに関しては僕の舌足らずの部分もあります。"うちなーんちゅ"が琉球民族と同一かに関してはまだ世界的に決定してはいないからです。ただ一方で、"世界のうちなーんちゅ大会"とか、うちなーんちゅ=沖縄(うちなー)人(ちゅ)であることからしても、人種名/民族名として使われる傾向はあるとは思います。これに対して"しまんちゅ"と言った言葉は(沖縄語としては正統ではないとかも言われますが)より包括的なので、民族を超えた沖縄の人を指す言葉にふさわしいかもしれません。
 ちなみに、その台湾系の人に対し、"お前は本当のうちなーんちゅではない"といったことをどういった文脈でいったかによってその意味はだいぶ変わってきます。仮に、まんま"お前は本当のうちなーんちゅじゃない!"と表現したならこれはレイシズム的です。一方で沖縄人/琉球人の祖先がいない人が、うちなーんちゅの定義に入らないことをただ指摘しただけなら、これは(僕も同意するような)ありうる政治的スタンスだと思います。

 例えば、台湾から何世代も前に移住してきた人を祖先とする沖縄の人に関しては、あと数世紀たてば誰の祖先が沖縄人だったかなんて検証できなくなるかもしれない。絶対的なことではないと思います。
 ですから、そもそも彼らがうちなーんちゅかどうかを議論すべきだと僕が思うのは、あくまで現在の政治的議論との関連があるからです。(つまり、未来永劫うちなーんちゅではない、なんてことじゃない、ということです。)
 特に人種問題に関しては、例えば沖縄人が誰かを根本的に"自称主義"にしてしまうと、沖縄人に対する同化政策の歴史や構造的植民地主義といった歴史がある以上、問題があると思われます。(※生物学的リアリティに基づく性自認⦅例:トランスジェンダーの人が感じる性別違和など、トランスヘイターの方々が言うのと違って、ジェンダーはある程度生物学的なリアリティに基づいているものです。⦆と人種(ぼんやりしたハプロタイプのグラデーションにすぎない人類を、ヨーロッパ人が階級に分けたことから始まったもの)の自称は、いろいろ違った性質の話です。これは世の中で結構認められたポジションだと思います。:Donald Glover’s ‘Atlanta’ Skewers Transracial Identity in Most Ambitious Episode Yet (thedailybeast.com)この二つを同じものに見せかけようとトランスヘイターの方々はしていますが、はっきりいってデタラメにしか思えません。)
 ぼくのスタンスは別に純血主義だとは思いません。ネイティブアメリカンの土地に移住してきた白人をネイティブアメリカンとは呼ばないし、アイルランドに移住してきたイギリス人をアイリッシュと呼ばないのと同じようなことだと思います。(南米のケースはより複雑なので省きます。)

 もう一つ、rachel dolezalがトランスレイシャルだとかいった話についてはアメリカでかなりややこしい議論になった話としか知らないので、詳しいことは言えません。そもそもアメリカで、黒人の祖先がいる人=黒人だとされるのはone drop ruleという差別的な政策から来るかなり特殊な状況なので、他のマイノリティと比較することは基本的に不適切なことなのですが、トランスヘイターの方々はそういった基本事実さえ示さないので、議論に価しないと思います。
 ただ、バイレイシャルの女性が自身を白人だと親に言われて育った例など、実際には人種に関しても、ジェンダーと同じように"ゆらぎ"が見られる例は多数あります。人種の"自称主義"が例外的に正しい場合もあるわけです。
https://www.vox.com/xpress/2014/11/19/7242791/white-lie-film-black
 それもそのはずで、人種もジェンダーも結局は社会的構築物social constructであり、現実に覆いかぶさって勝手に定義するものでしかないからです。だからといって人種やジェンダーは大事でないわけではありませんーそうしたものが社会で力関係を生み、社会に影響を与えるからです。だからこそ人種主義(レイシズム)はだめで、人種のゆらぎがある状況を認めるのはよい、にしてもカラー・ブラインドネスはいけない。また、ジェンダーは社会的構築物なのでそれに批判的であるにしても、トランスジェンダーの人たちが自身を定義する方法に他人が口出しすべきじゃない、といったことだと思います。
 結論として、自身を"うちなーんちゅ"だと思っていた非琉球/沖縄ルーツの人が、他人に"うちなーんちゅ"ではないと指摘されると、その非琉球/沖縄ルーツの人が爪弾きにされた気がしてかわいそうだろう、といった意見に僕は懐疑的にならざるを得ません。それは、上に示した("アイヌは自称だ"デマ、セトラーコロニアリズム、性質の違う, ジェンダーと人種を並列してトランスフォビアに繋がってしまうことの)ようなリスクを無視しているし、"うちなーんちゅ"の定義はなにかといったことを検討するような主張とも思えないからです。

 長文すみません。

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