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オレラモヤリタカッタ 蹶起将校・山本又の見た憲兵司令官

 2月27日、二・二六事件発生から1日経ち、蹶起将校の一人、山本又予備役少尉は、下士官一名のみを連れて、憲兵司令部を訪れた。目的は、戒厳司令部参謀・石原莞爾との面会だった。昭和維新の大詔渙発が出るという話を聞き、それが事実かを確認しに来たのだ。
 憲兵司令部につくと、山本はさっそく憲兵司令官・岩佐禄郎中将と面会する。すると岩佐は山本の手をとり、涙ながらに「オレラモヤリタカッタ。ダガ、骨肉相食ムナヨ」と語り、山本も心中涙を流した。
 このあと、山本は憲兵司令部で石原莞爾・満井佐吉に会い、大詔渙発については石原が尽力していると聞かされた。

 以上が、山本又の獄中手記「二・二六日本革命史」に書かれた、憲兵司令官との面会の様子である。手記が掲載された『二・二六事件蹶起将校 最後の手記』では、解説の保坂正康はこの箇所について特にコメントはしていない。解説はその後の石原・満井との面会内容に重点を置いている。だが、憲兵司令官たる岩佐が「オレラモヤリタカッタ」などと蹶起将校に同調的な発言をしているのは、重要である。
 しかし、岩佐禄郎の発言としては違和感がある。事件時の彼の行動は、この発言とはまったくそぐわないのだ。

事件時の岩佐禄郎

 岩佐禄郎は昭和10年9月に憲兵司令官に就任した。時期的に見ても定期異動だったが、状況を考えれば、油断ならない情勢下に着任したことになる。前月には、陸軍中佐・相沢三郎が現職軍務局長・永田鉄山を刺殺した、いわゆる相沢事件が起きている。相沢は年齢的に青年とは言えないものの、青年将校と総称される革新派将校グループの一員であった。永田の殺害は相沢の独断だったが、同志たる青年将校たちは相沢を支援し、その裁判によって、現在の陸軍の問題を指摘し、昭和維新の気運を高めようと行動を起こしていた。一方で、青年将校の中には日頃から武力行使による昭和維新の早期実現を主張する者もおり、それらは相沢事件に刺激されてその過激性を強めている。
 このような時期に憲兵司令官に着任した岩佐だったが、彼は痛風を患っており、職務をこなすには不安があった。このため、実務は憲兵司令部総務部長・矢野機少将が執ることになった。矢野の前職は朝鮮軍司令部付で、朝鮮憲兵司令官だった岩佐は、矢野を見込んで憲兵司令官就任にあたり、彼を総務部長に招いた。
 事件が発生した2月26日、岩佐はただちに永田町へ向かう。だが、既に首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を含む一帯は、蹶起部隊によって封鎖されていた。
 岩佐は半蔵門付近の封鎖線で止められた。このときそこを封鎖していたのは、蹶起将校・安藤輝三大尉麾下、歩兵第3連隊第6中隊だった。
 「通せ」「通さぬ」の押し問答の果てに、空気は不穏なものになっていく。岩佐は副官に促されてその場を離れた。その際岩佐は「それでも天皇陛下の軍隊か」と叫んだという。ちなみにこのとき、岩佐は安藤には会えなかった。
 このあと岩佐は荒木貞夫を訪ねた。今回の事件を未然に防げなかったことを謝し、荒木に蹶起部隊を撤収させるよう説得を依頼した。「貴方が行けば彼らはいうことをききます」と語る岩佐から、荒木は警視庁が制圧されたことなどを聞く。
 翌27日、麹町憲兵分隊所属の小坂慶助曹長らと首相秘書官の迫水久常・福田耕の連携によって、首相公邸で生き伸びていた首相・岡田啓介が救出された。この時点で、岩佐には何の報告も上がってきていない。救出は麴町憲兵分隊の独断だった。
 28日になって、岩佐は岡田の生存を知る。このとき内閣では、岡田を参内させるかこのまま謹慎させるかで揉めていた。秘書官・迫水は断固参内すべきと考え、警視総監・小栗一雄に参内時の警察による岡田の護衛を依頼した。
 しかし小栗は、難色を示した。襲撃された重臣たちは、陸軍教育総監・渡辺錠太郎以外は警察の警護を受けていたが、完全武装の兵隊の前には無力であり、本拠地である警視庁さえ占領された。岡田の生存が蹶起部隊に知られれば、彼らは再び岡田の命を狙うかもしれない。そうなったとき、警察では岡田を守り切れない。むしろ、憲兵隊に要請してはどうか、と小栗は勧めた。
 こうして、憲兵隊に岡田の参内の警護が要請された。すぐに岩佐は動く。

「兵を取り締まるべき立場にありながら、かような事件を起こさせ誠に申し訳なし。今日は身をもって総理を護衛申し上ぐべし」           

岡田貞寛『父と私の二・二六事件』

 として、自ら岡田を迎えに行き、共に参内したのだ。事件を未然に防げなかった憲兵隊にとって、面目躍如だった。
 このように、岩佐は憲兵司令官として事件の発生に強い責任を感じていた。そんな彼が蹶起将校の一人に、「オレラモヤリタカッタ」などと言うだろうか。まして、一憲兵将校の言葉ではない。憲兵司令官の言葉である。明らかに問題発言だが、事件中の行動とは矛盾する。そしてこの言葉は、山本又の手記にしか書いていないのである。

山本又という蹶起将校

 山本又は蹶起将校の一人に数えられはするものの、その経歴は他の将校に比べて異色である。
 まず、年齢は42歳だった。他の蹶起将校が20代後半から30代前半なので、一回り年上となる。さらに、現役ではなく予備役少尉だった。志願兵として軍歴を始め、以後15年の軍隊生活を送り、予備役少尉になるとともに現役を退いた。以後は故郷静岡で農業を営みながら在郷軍人会の分会長などを務めた。
 この頃からすでに、山本は国家改造の必要性を感じていた。それは、実際に農事に携わることで見えてきた信用組合への不信、その背後にある腐敗堕落した政党への憤り、実際に見る農村の疲弊などが重なっていた。そこへ、在郷軍人分会長会議の席上、ある中佐から十月事件の講述を聞き、軍隊における国家改造運動に共感するとともに、運動を土壇場で潰した中央幕僚のやり方に憤りを感じた。
 十月事件の騒動に関しては、実際に見た青年将校と、又聞きした山本では、抱いた印象も異なるだろう。それでも、「幕僚への不信」という一点では、青年将校たちと近しい心情だった。
 だが山本は、実際に運動を行ったわけではない。農村の疲弊を嘆くにしても、そもそも彼自身も農業を営んでいるのだから、それは当事者の実感だった。生活は苦しく、地方にあってはそうした運動もままならない。
 結局山本は、元の上官に就職斡旋を頼み、陸軍省が開いていた退役武官向けの中等教員養成講習会に参加した。このために山本家は生活基盤を東京へと移した。講習会を終えた後、山本は東京・府中の明星中学校で体育教師を務め、二・二六事件の際にもその職にあった。
 いわば山本は、将校と言ってもほぼ民間人なのである。彼は磯部浅一を通じて青年将校と接点を持ったが、付き合いがあったのは磯部と村中孝次ぐらいで、栗原安秀などは山本について「私は住所も知らんし、又如何なる人物かも知りません」と答えている。
 蹶起趣意書を謄写したのは山本だが、中枢メンバーの一員というわけでもない。つまるところ蹶起将校たちから見て、山本は民間からの参加者とさして変わらない認識だったのだろう。
 だがさすが、蹶起将校たちより年齢が上のためか、彼らに比べると山本は行動力があった。大詔渙発が事実か、憲兵司令部に単独で確認に行くほどである。
 さて、その山本の行動は、手記では「27日」と記している。しかし裁判において憲兵司令部訪問を山本は「28日」と語っていた。
 裁判で山本が語った動きは、以下の通りである。

(一)28日午前憲兵司令部を訪問。石原莞爾・満井佐吉と面談。両者は大詔渙発については尽力するので蹶起部隊はひとまず後退することを勧める。

(二)そのまま戒厳司令官・香椎浩平と会うことを薦められ、香椎と面談。香椎は「皇軍同士討ちは絶対にさせない」と語る。

(三)その後山本は満井と共に新議事堂に向かい、居合わせた安藤輝三・丹生誠忠ら二、三の将校を満井が諭す現場に居合わせる。

 一方、手記においては、(一)と(三)は「27日」だが、(二)は「28日」の出来事になっている。つまり、27日に憲兵司令部を訪問した後、山本は満井と共に新議事堂に向かった。翌28日、陸相官邸において栗原が、山下奉文らに全員自決の意と勅使差遣を願い出た後、山本は単身で戒厳司令部に向かい、香椎と面談、「同士討ちは絶対させない」との言質を得た。
 どちらが正しいのか。筆者は、満井佐吉の憲兵調書と、磯部浅一の公判記録から、手記が正しいと判断する。
 満井は憲兵調書の中で、27日の行動を次のように語っている。

 帰宅後間もなく、憲兵司令部、兵務課より、来て呉れとの電話がありましたので、直に自動車にて憲兵司令部に行きました。憲兵司令部では山本少尉と会ひましたが、山本少尉より、「満井中佐の説得ならば、青年将校も聞き入れると思ふ」との話あり、憲兵司令官、東京隊長その他の憲兵将校より山本少尉と私に(満井)、行つて青年将校を説得して貰ひ度いとの依頼あり、下士官二名同乗して、陸相官邸に行きました。

二・二六事件秘録(一) 憲兵調書〔満井佐吉〕

 山本の手記では、憲兵司令部でまず石原に会い、遅れてやってきた満井と会っている。調書でも、この後満井は山本と共に新議事堂に向かい、将校たちを諭していた。この点、手記とは矛盾しない。調書で改めて27日の行動を問われた満井は同じことを証言しており、また聴取する憲兵も「27日午前十一時頃、新議事堂前、首相官邸に於て、蹶起部隊将校等を説得したる状況如何」と聞いている。山本はその場に安藤・丹生がいたと証言しているが、二人の調書・公判記録には、そのことに関する記載はない。ただ、同時刻、新議事堂前に部隊が集結していたことは、満井が27日に新議事堂前で将校を諭したのと符号する。
 28日の動向に関しても、磯部の公判記録に次のように書いている。

 山本又が東京憲兵隊の神谷少佐と共に農相官邸へ来まして山本が戒厳司令部へ行って戒厳司令官に会って来た状況を話しました。其時神谷少佐が私に君自身戒厳司令部へ行って司令官に会って来たらどうかと云いましたので(中略)神谷少佐と共に午前十時頃戒厳司令部へ行きました。

二・二六事件裁判記録 第6回公判調書 磯部浅一(続)

 神谷憲兵少佐とは、東京憲兵隊警務課長・神谷能弘少佐であろう。山本の手記でも岩佐との面会時、警備課長の憲兵少佐のことが記されているが、山本は姓を失念していた。そのためか、手記において磯部に戒厳司令官に会ったと告げる件に、神谷の名は上がらない。磯部の証言は、28日に山本が戒厳司令部で香椎浩平と会ったことを裏付けている。
 以上のことから、憲兵調書・裁判記録における山本の証言は、27日の憲兵司令部訪問と28日の戒厳司令部訪問を一緒くたにしてしまった、記憶違いであろう。当時、戒厳司令部のおかれた軍人会館と、憲兵司令部の場所は300メートルと離れていなかった。
 山本手記を解説した保坂正康は、手記の現代語訳に注釈して、

 実際に山本が石原、満井と戒厳司令部で会ったのは二十八日午前のことだった。二人と会談した後に香椎戒厳司令官と面会している。

山本又『二・二六事件蹶起将校 最後の手記』

 と書き、憲兵司令部への訪問、戒厳司令部への訪問が同日に行われたという山本の憲兵調書・公判記録の証言に基づいて解説している。だがそうすると今度は満井の憲兵調書に矛盾が生じる。山本の手記と、満井の調書に基づけば、両者の動きに矛盾は生じない。しかし、保坂は満井の憲兵調書について言及していなかった。

岩佐禄郎と山本又

 話を山本と岩佐憲兵司令官に戻そう。
 満井の憲兵調書で、山本が岩佐と面会していることは裏付けられた。そしてその場には、東京憲兵隊長・坂本俊馬大佐も立ち会っている。
 この坂本の存在は大きい。彼は西田税の起こした天剣党趣意書配布事件の頃から青年将校運動に明るい、生粋の憲兵である。決して青年将校に同情的な人物ではない。事件以前より蹶起情報を得た坂本は、関東の憲兵分隊から応援を呼び、歩兵第1・第3連隊衛戍地の監視を強めていた。その坂本を前にして上官たる憲兵司令官が、「オレラモヤリタカッタ」などと言うはずもない。
 では山本は嘘を書いたのか、というとそうとも言い切れない。手記を読んでも、山本が物事を前向きに捉える純情な性格なのが見て取れる。岩佐の言葉のくだりにしても、岩佐を貶めようという意図はなく、如何にも聞いたことを書いているだけというのが読み取れる。また後半の「骨肉相食ムナヨ」というのは、如何にも岩佐の言いそうな言葉である。
 筆者としては、「オレラモヤリタカッタ」というのは、岩佐ではなく、別の人物に山本が言われたのではないかと思う。ではそれが誰かというと、特定するのは不可能である。事件発生後、三宅坂の本庁を制圧された陸軍省・参謀本部の幕僚たちは憲兵司令部に集まっていた。当時の司令部勤務の憲兵将校たちは、ごった返す省部幕僚たちによって業務が阻害されたと証言している。
 そのような状況で山本は一人で憲兵司令部を訪れた。よく易々と憲兵司令官に会えたものと思うが、その途中、省部幕僚の誰かに声をかけられた可能性は十分にある。その人物が山本に「オレラモヤリタカッタ」と声をかけたのではないだろうか。
 憲兵隊内にも、蹶起将校に同情的な者はいたが、省部幕僚の中にもそうした者は多い。山本がそうした軍人たちに一声もかけられずに、容易に憲兵司令官に会えるとも思えない。
 手記ではあっさりと岩佐と面会しているが、そこに至るには何かしらプロセスがあったはずなのだ。その点について、山本はふれなかった。

岩佐の最後の仕事

 事件が落着した後の3月10日、首相を救出した小坂慶助・青柳利之・小倉倉一の3名に、岩佐は表彰状を授与した。小倉倉一によれば、岩佐は次のように涙ながらに訓示した。

「この度の事件を事前に防止できなかった憲兵の責任は大きいが、諸君の功績は憲兵の評価を高めたものである。尚宮中に参内した際に、天皇陛下より、『総理大臣の救出に就ては御苦労であった』とのお言葉があり、憲兵全員の光栄である」

岡田貞寛『父と私の二・二六事件』

 青柳利之も回顧録に岩佐の訓示として、

「人は死んだ後でも、彼が生涯で最も愛した人々や、心血を注いだ仕事、作品の中に生き続けるものである。これが永遠の生命というものである」

青柳利之『首相官邸の血しぶき』

 という言葉があったことを記している。
 青柳の聞いた岩佐の訓示は、彼らの功績が公に出来ないことへの慰めだったのだろう。通常、賞状をもらえば、憲兵隊の機関誌『憲友』に掲載されるが、小坂たちの首相救出の件は掲載されなかった。賞状が授与されたことも掲載されず、小坂はそれが不満だった。
 だが、陸軍内はもちろん憲兵隊内にも蹶起将校に同情的な者はおり、小坂は江戸時代、松の廊下事件で吉良上野介に斬りつけた浅野内匠頭を制止した、梶川与惣兵衛に準えて、正面から面罵されている。
 表彰が公表されなかったのは、彼らに対する迫害を考慮してのものだろう。事件が終結し、小坂たちの名前が新聞に載ると青柳は書いた記者を訪ね、他にも貢献した憲兵がおり、彼らの名も公表してくれと頼んだが、記者は「デマや中傷がつきものだから、黙っていることだ。自己宣伝は怖いぞ。君の上司にだって白も黒もいることだから」と注意している。
 事件が終結し、岩佐は重謹慎30日の処分が下り、3月23日には待命となり、後任の憲兵司令官には陸軍習志野学校校長・中島今朝吾が就任した。7月には岩佐は予備役となり、昭和13年8月に死去した。
 二・二六事件に関する岩佐の記録は少ない。しかし、少ない記録からも岩佐が事件にどれほど責任を感じていたかは見て取れる。
 そんな中で、山本の手記に描写された岩佐の言葉は異彩を放つ。発言自体は山本の手記にしか載っていないため、言っていないことを論証しようにも、岩佐の印象論でしか説明はできない。岩佐禄郎の伝記も存在するが、そちらにもこの件に関する記載はないようである。
 手記が発見されたのは平成20年である。もっと早く発見公表されていれば、より注目され、少ないながらも関連する情報も出てきただろう。
 だが、残念ながら、今となっては、多くの人の興味を引く事柄ではない。保坂正康も岩佐の発言は問題視せず、そのあとの石原莞爾・満井佐吉の発言を重要視している。
 岩佐は「オレラモヤリタカッタ」と言ったのか、言わなかったのか。当事者もいない今、真実はわからない。


主要参考文献

青柳利之『首相官邸の血しぶき』ヒューマンドキュメント社
池田俊彦編『二・二六事件裁判記録』原書房
岡田貞寛『父と私の二・二六事件』光人社
全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』全国憲友会
林茂他編『二・二六事件秘録』小学館
山本又『二・二六事件蹶起将校 最後の手記』解説:保坂正康 文藝春秋

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