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相沢事件 ~狂人かそれとも……~

 昭和10年8月12日、陸軍省軍務局長室において軍務局長・永田鉄山少将が、相沢三郎中佐によって刺殺された。いわゆる相沢事件である。
 相沢はその年齢には珍しく、青年将校たちの影響を受けていた。ゆえに、昭和9年11月の陸軍士官学校事件、相沢事件前月に起きた陸軍教育総監・真崎甚三郎の罷免の件、これらは全て永田鉄山の策謀とみなしての犯行であった。
 白昼の凶行、殺害後の発言ゆえに、相沢は狂人呼ばわりされることになる。

相沢事件

 相沢は明治22年生まれで事件時には44歳だった。陸軍士官学校は第22期生で、同期には鈴木貞一・牟田口廉也・鈴木率道・村上啓作など錚々たる面々がいる。前後の期を見ても、21期には石原莞爾・樋口季一郎、23期には橋本欣五郎・根本博など、世代的には青年将校が嫌うところの「幕僚ファッショ」と呼ばれる人々と同世代である。
 だが相沢は、青年将校の影響を「受け」ていた。青年将校・大岸頼好を師と仰ぎ、東京に来ると西田税の家に出入りして、若い将校たちに交じっていた。青年将校たちは概ね20代後半から30代前半である。相沢は一回りも年上だった。
 相沢は平然と若者たちの中に入り、年少の将校たちを尊敬した。若者の集団に交じる年長者であれば、それを活かしてご意見番、後見人ぶりそうなものだが、相沢はそんなことはしなかった。ただ純粋に将校たちを尊敬していた。
 昭和10年正月、相沢は仙台で師である大岸、古い同志である末松太平と会った。この際、相沢は大岸に、永田鉄山殺害を相談した。当時相沢は福山の歩兵第41連隊附だったため、その帰路に殺害しようというのだ。
 前年11月には陸軍士官学校事件が起こった。磯部浅一・村中孝次ら青年将校が議会襲撃を中心とした蹶起を企図していたという疑いで、拘束されたのだ。実際のところ、村中たちにはそんな計画はなかった。会合に参加した士官候補生がしつこく計画について聞いてきたので、宥めるために適当な計画を語ったのだが、それが当時、士官学校区隊長だった辻政信に密告され、辻を経由して片倉衷がこれをクーデター計画として当局に通報した。
 元より計画も何もない。磯部・村中は無実を訴え、士官候補生をスパイにした辻・片倉を非難し、これは永田鉄山一派の謀略だと主張した。青年将校たちもこれは永田一派の謀略と見なし、西田税が中心となって、これを安政の大獄に準えた文書を配布していく。
 時期を考えれば、相沢が昭和10年正月に永田殺害を企図したのは、士官学校事件が大きいだろう。だが、大岸は相沢を止めた。相沢は拳を握り、涙を流しながらその反論を聞いた。大岸が帰った後、諦めきれない相沢は末松に誘いをかけたが、末松もこれを止めた。結局、昭和10年正月、永田が斬られることはなかった。
 その後、陸軍士官学校事件は軍法会議の結果、磯部・村中たちは不起訴処分のうえで停職、辻も重謹慎30日の行政処分の後、水戸の歩兵第2連隊へ転出した。
 当然、磯部たちがこの結果に満足するわけもなく、辻と片倉を誣告罪で訴えた。これが取り上げられることはなかった。憤懣を抱えた磯部・村中は、昭和10年7月、『粛軍に関する意見書』を上層部に提出するとともに、一般にも配布したが、これが問題となって8月に免官となった。
 同時期、上層部ではいわゆる皇道派の領袖・真崎甚三郎が教育総監を更迭される事態が起きていた。これは当時、政界で問題になっていた天皇機関説問題に関し、真崎が率先して機関説を攻撃したことが問題となり、持ち上がった話だ。陸軍内では派閥抗争が激しくなってきていたが、合わせて、もともと真崎は宮中からも不信感を持たれていた。
 陸軍上層部は真崎に辞任を薦めたが、真崎は応じない。結局、真崎は更迭され、教育総監を罷免された。真崎は全て軍務局長・永田鉄山の策動と、永田を恨み、盟友・荒木貞夫と共に、軍事参事官会議で永田を弾劾した。その際、真崎たちは永田が書いたという三月事件のクーデター計画書を暴露したが、逆に真崎の後任・渡辺錠太郎から、「機密文書(荒木も認めてる)を私蔵していたのはどういう次第であるか」と返されて何も答えられなかった。
 この騒動のさなか、相沢は上京し、永田に会見を希望した。当時陸軍大臣秘書官で旧知だった有末精三少佐を介して永田と会った相沢は、昨今の情勢をあげて、永田に辞職を薦めた。当然、永田が応じるはずもない。この日は7月19日、真崎・荒木が永田を弾劾した軍事参事官会議が17日なので、多忙な時期に相沢の話を聞いている。部下が車の準備ができたと何度も催促しても、永田は腰を上げなかった。永田なりの誠意を見せたわけだが、それは相沢を納得させるものではなかった。
 この会談の前後、大蔵栄一は西田の家で相沢に会った。このときはまだ停職中だった村中と、栗原安秀もいた。話の流れで、天皇側近の人物論が話題となり、そこで大蔵が言った。

「相沢さんのような人が侍従武官にならんとどうにもならんな」
 と、私が言った。
 とたんに相沢中佐の目が光り、威儀が正された。
「大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか、慎みなさい。そんなことは私議すべきではありません。二度と口にすべきではありません」
 一座はしーんとなった。私はこのときのような相沢中佐のはげしい怒りのまなざしを見たことがなかった。
                 大蔵栄一『二・二六事件の挽歌』より

 奇しくも真崎更迭問題さなかの話である。相沢が何を問題にしているかが伺えた。
 8月1日、相沢は定期異動で台湾歩兵第1連隊への転属が決まった。時期が時期ゆえに永田が左遷したのだという意見もあるが、十月事件の頃に任地を勝手に離れるなど、問題行動があったことから見ても、左遷ではあるが永田の策謀ではあるまい。「自分に辞職を勧告したから左遷」するほど、永田は器の小さい男ではない。
 同時期、磯部・村中は『粛軍に関する意見書』が問題となって、免官となった。
 相沢は再び上京し、西田税の家に泊まった。村中たちの件以外、何の変化もないことを知り、相沢は決断する。その夜、西田を訪ねてきた大蔵栄一に、相沢は聞いた。
「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴はだれですか」
 大蔵は即答した。
「永田鉄山ですよ」
「やっぱりそうでしょうなァ」
 翌8月12日、相沢は永田鉄山を刺殺した。世に言う相沢事件である。


相沢狂人説

 事件直後から、相沢は狂人だったという噂が立った。
 白昼の凶行、直後の「偕行社で買い物をしてから台湾に向かう」という発言が基にあった。
 この発言の真意云々は、論じても意味はないと思う。だが、相沢を狂人と見なす声が上がるのもやむをえないだろう。
 永田を中心とした一派にすれば、相沢は憎むべき仇である。相沢の大義を認めるはずもない。
 一般の軍人にしても、相沢の行為は非常識である。五・一五事件というテロの先例はあったが、あれはある種、軍や社会が政党政治に抱いていた憤懣の爆発であり、対象は政治家だった。参加した青年将校たちは20代半ばで、彼らが裁判で動機を語ると、判士長・弁護人・検察官・傍聴していた記者たちも、感激して涙を流し、「私心なき青年の純真」というイメージが形成された。
 後の二・二六事件においても、「青年将校」というフレーズから、同じようなイメージは抱かれ、戦後には三島由紀夫を魅了した。だが、二・二六の蹶起将校の中心メンバーはほとんど30代前半で、妻子ある一家の長である。広義の意味では青年に入るものの、その行為を「若気の至り」扱いできるものではない。
 その点でいえば相沢は青年将校たちより一回りも年上の40代半ばである。先述のとおり、同期には鈴木貞一・鈴木率道・牟田口廉也など、すでに中央で活躍する将校たちが名を連ねていた。一般常識で考えれば、「いい大人」なのである。
 相沢の思想的背景を知る人々からすれば、「とうとうやったか」という思いだろうが、相沢がどのような思想を持っているかなど、広く知られているはずもない。「現役陸軍中佐が白昼堂々軍務局長を殺害した」と聞けば、多くの人はまず第一に「気でも触れたか」と思うことだろう。
 また、相沢は多くの情報を青年将校に頼り、「彼らが間違いを言うはずはない」と信じ切っていた。
 相沢の古巣であり、同志・末松太平の所属する青森歩兵第5連隊にも、永田の死を伝える号外が届いたが、犯人は「○○中佐」と伏字になっていた。末松は相沢のことだとすぐにわかったが、他の将校たちはいったい誰だろうと話し合い、かつて第5連隊で寝食を共にした人だとは考えもしなかった。
 時間が経つにつれ、相沢の経歴・思想などが知られるようになって、相沢狂人説は消えていったという。だが、悪名の方が人々の記憶に残るのは世の常だ。特に、永田の死は、その高い評価と共に惜しまれた。戦後になると「永田が生きていれば太平洋戦争は起きなかった」と言われた。そんな永田を殺したのだから、相沢狂人説がなおも人口に膾炙するのも無理はなかった。


相沢公判

 相沢事件直後から、同志たる青年将校たちは、相沢の弁護に動いた。
 誰を特別弁護人にするか。相沢は西田たちにすべて任せた。そこで候補に挙がったのが、仙台幼年学校以来、相沢の一期先輩である石原莞爾大佐だった。
 早速、渋川善助が石原と交渉した。ちなみに大蔵栄一は回顧録で、「石原は渋川の同郷の先輩」と書いているが、渋川は福島の会津出身、石原は山形の鶴岡出身である。東北というくくりなら同郷と言えなくもないが、大蔵の勘違いであろう。ただ、渋川も仙台幼年学校出身であるため、先輩後輩の関係なのは間違いない。
 石原は特別弁護人の件を快諾し、相沢もそれを喜んだ。ところがある日、石原との打ち合わせを終えた渋川は、同志たちに、「石原大佐は弁護人として不適当かもしれん」と告げた。
「相沢の弁護は大いにやるつもりだ。だが相沢の悪い点は徹底的にやっつけてやるつもりだ」
 と石原は言った。この言葉が渋川には引っかかり、聞いた西田と大蔵も同じように感じた。結局、石原ではなく陸軍大学校教官・満井佐吉中佐を特別弁護人に立てることになった。
 加えて、政治浪人・亀川哲也の斡旋で、貴族院議員・鵜沢総明も弁護人を務めることになった。後に極東国際軍事裁判で日本側弁護団団長を務め、相沢事件以前には浜口雄幸狙撃事件、血盟団事件などで弁護人を務めた人物である。
 満井は青年将校たちの理解者だったが、意思疎通が取れているようには見えない。
 ある日、大蔵栄一が西田の家に、渋川善助・村中孝次と集まったとき、満井が訪ねてきて、次のように言った。

「相沢中佐が事件の直後『これから台湾に赴任する』といったことを取り上げて、陸軍省方面では、相沢狂人説がだいぶ流布されている。そこでこちらは、その狂人説を逆用して、相沢さんの精神鑑定を要求するんだ。これで押しまくれば、相沢さんのいのちを助けることは絶対だ」(前掲大蔵書)

 大蔵たちは異口同音に「そんなばかな……」と否定し、村中がまくしたてた。

「中佐殿、血迷ったんではないですか。ここで大事なことは、相沢さんの真精神が十全に生かされることです。狂人説を逆用して、かりに相沢さんのいのちが助かったとしても、『やはり狂人に刃物だったんだ』と世間の嘲笑を買うだけで、生きて生き恥をさらすのは相沢中佐殿自身ですよ。相沢さんは死ぬことにはもちろん未練はないはずです。正面から堂々と相沢精神をぶつけることですよ。それで殺されたら、それはそれでいいではないですか。相沢さんの望むところもまた、そこにあるのではないですか」(前掲大蔵書)

 満井は「オレが間違っていた」と提案をあっさり引き下げた。
 村中の言葉からは、彼らの公判運動が、必ずしも相沢の無罪を勝ち取るとか、相沢の命を救うことを目的としていないことが窺える。公判を活かして、昭和維新の機運を高め、士官学校事件・真崎教育総監罷免など、軍内部の問題を詳らかにすることにあったのだろう。また、相沢が死刑となれば、悲劇の英雄として同情を得ることが期待できる。そうした冷徹な考えが過らなかったとは思えない。
 青年将校たちから血迷ったのかと言われた満井だったが、軍内部の問題を詳らかにするという点では、考えは同じだった。彼は相沢事件の原因、動機の本質は三月事件・十月事件以来の統帥権問題があると、事前に大臣・次官ら軍幹部に伝えている。そのうえで、公判で明らかになる前に、軍の実情を政治的に処理して収拾してはどうかと進言した。
 幹部たちは「そう速急に国事は動かない」と取り合わなかったが、「現在の軍首脳部が、外部から政治的に影響されて、公判を圧迫すると云ふ事はないから、其の点は安心してもらいたい」と告げた。
 おそらく、石原莞爾も同じようにしただろう。口達者な石原のことゆえ、相沢公判というよりは「石原莞爾独演会」になっただろうが。
 弁護人である鵜沢は、公判中の昭和11年2月18日、以前書いた『統帥権と統帥』という冊子を再版した。これは亀川哲也の薦めによるもので、明記はしていないものの、時期を考えれば、相沢公判で統帥権の問題を取り上げる前に、世間に統帥権とは何かを解説する意図があったのだろう。
 だが、満井ら弁護人の思惑も虚しく、事態は最悪の方向へと向かっていく。


相沢の口癖

 「年寄りから先きですよ」とは相沢の口癖であった。
 五・一五事件の直前、事件に参加する中村義雄海軍中尉が安藤輝三に陸軍の蹶起を促す席に居合わせた相沢は、中村を諫め、「もしやるときがくるとしても、年寄りから先きですよ」と言ったという。
 これは「我に続け」ということではなく、「自分が捨て石になる」という意味だった。だが、青年将校たちはそう受け取らなかった。
 磯部浅一は事件で混乱する陸軍省の様子を見て、「今起てば必ず成功する」と確信し、栗原安秀は「先を越された」とばかりに急進性を増していった。
 相沢公判が正常に続いていた場合、どのような判決が下ったかは定かではない。裁判は昭和11年1月28日に始まり、2月25日には真崎が証人として出廷した。
 そして2月26日、相沢の思いも虚しく、青年将校たちは相沢の後に続いた。

 若い人々は、かえって相沢中佐の犠牲につづいて、相沢中佐が幽居する代々木の刑務所はやがてこの若い人々によってあふれ、俄かに牢獄を建て増すまでになるのである。
                     末松太平『私の昭和史』より

 満井・鵜沢は関与を疑われて弁護人から外され、裁判も非公開となった。5月7日に死刑判決が下り、青年将校たちに先立つ7月3日、死刑が執行された。


主要参考文献

岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社 2019)
岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝』(小学館 2020)
大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』(読売新聞社 1971)
小山俊樹『五・一五事件』(中央公論新社 2020)
北博昭『二・二六事件 全検証』(朝日新聞出版 2002)
末松太平『私の昭和史 上・下』(中央公論新社 2013)
林茂・伊藤隆ほか編『二・二六事件秘録』(一~二)(小学館 1971)

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