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二・二六事件私的備忘録(十三)「青年将校三人の回顧録」

 二・二六事件に関係した青年将校たちは、それぞれに事件を回顧する著作や談話を残している。代表的なのは蹶起にも参加した池田俊彦少尉だが、彼は青年将校運動全体から見ると、「新参」である。
 回顧録を残した「古参」の青年将校といえば、末松太平・大蔵栄一・新井勲の三人だ。その古参たる所以は、十月事件に何かしら関与していることにある。
 今回は、この三人の回顧録を比較していきたい。
 なお、三人の著作はそれぞれ、末松本(『私の昭和史』)、大蔵本(『二・二六事件への挽歌』)、新井本(『日本を震撼させた四日間』)と表記する。

三人の覚醒時期

 三人が革新思想に目覚めた、あるいは革新派に参画した時期は、それぞれ末松・新井・大蔵の順で、末松が一番古い。新井と大蔵はほぼ同時期ではあるが、数ヶ月ほど新井が先である。
 末松は士官学校予科を経て青森歩兵第5連隊に士官候補生として着任した大正14年に大岸頼好と会い、革新思想に傾倒した。士官学校本科入学後は、西田税のもとに出入りして、その思想に磨きをかけていく。
 昭和6年8月、鹿児島歩兵第45連隊から、北一輝・西田税・大岸頼好から一目置かれる青年将校、菅波三郎中尉が、麻布歩兵第3連隊に着任した。着任早々、菅波は後に二・二六事件の首魁となる野中四郎・安藤輝三を同志に加えるなど、革新派の拡大に尽力する。そうして引き込まれたのが、新井勲だった。当時新井勲は7月に陸士本科を卒業したばかりで、少尉任官もしていない見習士官(10月に正式任官)である。
 菅波と陸士で同期だったのが、大蔵栄一。朝鮮半島の羅南(現・北朝鮮咸鏡北道清津市)歩兵第73連隊にいたが、陸軍戸山学校の教官へと転任していた。大蔵は昭和6年5月頃から、桜会の会合に出席するようになり、おのずと橋本欣五郎の主導する十月事件へつながるクーデター計画にも参加していった。その過程で、同期である菅波と再会し、彼を通じて西田税・北一輝を知った。
 末松も同じころ、戸山学校の生徒だった。菅波と末松は西田宅で、近衛歩兵第3連隊の野田又雄中尉から桜会への参加を勧められ、計画へと関与した。この野田又雄は大蔵とは親交があり、大蔵の桜会への関与も野田の仲介かもしれない。
 この時点で、計画に関与していた革新派青年将校の代表格は、菅波と末松だった。だが、宴会でどんちゃん騒ぎをしながら機密であるべきクーデター計画を語り合う橋本一派の杜撰さ、クーデター後の閣僚人事(しかも橋本自身が入閣)を策定する不遜さ、同志のために勲章を制定するという利をもって誘う不純さから、菅波と末松は反感を募らせ、菅波は橋本一派の幹部・小原重孝大尉と組み打つ騒ぎまで起こした。末松・新井・大蔵はその場に居合わせており、三人とも回顧録でそのことに触れている。ちなみに一番具体的にそのことを描写しているのは末松である。そもそも菅波に勲章の件を教え、自分は抜けると末松が言った事が、騒ぎの原因だった。見習士官の新井は、菅波に連れてこられただけで、会合に出席したのも初めてである。この会合に関し、新井は酒の味もわからないほど硬くなっていたことを綴っている。
 昭和6年10月、計画は発覚し、橋本一派は検束された。だが処分は甘く、橋本たちはすぐ解放されている。すると、誰が情報をもらしたか、犯人捜しが始まった。橋本一派が疑ったのは西田税だったが、一方西田も橋本が自分で売ったのだと疑っていた。
 両者の仲裁役を任されたのが末松である。だが、橋本・西田会談は、西田が会談場所に来なかったことで実現しなかった。末松は西田を呼びに走り、居ない間に会談場所となった偕行社は西田の欠席裁判の場となる。末松が手ぶらで戻った時には、橋本一派の幹部たちは去っていた。末松はつるし上げられるのを覚悟していたが、残っていた人々はむしろ狭間に置かれた末松を慰労した。
 部署が同じためか、大蔵はこうした会合に末松を連れてくる役割を負っていた。帰路も同じため、末松本には、西田と橋本どちらが正しいのか悩む大蔵の姿が綴られている。ちなみに菅波は同じころ、第3連隊で謹慎処分を食らっていた。
 西田・橋本の対立は、末松の満州出征で有耶無耶になる。原隊である第5連隊から満州へ派遣する部隊に、末松も編入されることになったのだ。それを知ると西田は夫妻で末松の下宿を訪ね、色々世話をした。仲介の件で、西田・末松には微妙な空気があったはずだが、それすら超越した西田に、大蔵は感じ入った。
 末松本で、大蔵は末松に「貴様に対する西田氏の友情をみていて、西田氏に抱いていたおれの誤解は解けた」と語っている。そして当の大蔵本にも「西田税と私の交友関係が急激に親密の度を増していったのは、このときからであった」と書いている。
 大蔵はこの時から、革新派に加わった。

五・一五事件と士官学校事件、相沢事件

 十月事件の後、血盟団事件があり、五・一五事件があった。この頃の青年将校たちの様子は、大蔵本に詳しい。
 血盟団事件の際には、大蔵は血盟団のメンバー、古内栄司を匿った。結局古内は逮捕されるものの、大蔵は特に重い処分を受けなかった。
 五・一五事件で、直接関与はしなかったものの、菅波と村中孝次はそれぞれ満州と旭川に左遷となった。
 だが大蔵本の中で、大蔵は「これは左遷ではない」と語る。

 日本のすべての中枢である東京には、特異な性格がある。遠心力と求心力とである。国家革新への情熱が凝固するとき、軍当局の方針が遠心力となって、遠くにふっ飛ばすのである。また反対に、地方にあって凝固するとき、いかなる方法手段を講じても、その求心力にひきつけられるのである。菅波、村中の両中尉は、その遠心力で満洲、北海道へふっ飛ばされたというのが、私らの感覚であった。

 どのように語られても、やはり左遷としか思えない。
 大蔵本は自分たちの活動を美しく描いているものの、その文章から感じる歯に衣着せぬ大蔵の気性から見るに、これも「美化」ではなく、自然体だったように思える。
 ちなみに大蔵は、「求心力」の例として、陸軍大学校入学によって東京に舞い戻った村中を例に挙げているが、前述の法則に基づけば、菅波の方は革新への情熱が凝固せず、「求心力」が働かなかったことになる。

 五・一五事件から士官学校事件までの間に起きた、大岸と西田の対立についても大蔵は触れているが、具体的にどのように対立していたか、大蔵は詳しくは記していない。むしろ、当時満洲に出征していた末松の方が、末松本に対立の激しさを記している。対立要因を末松は北一輝の『日本改造法案大綱』を革新派の金科玉条であるのか、参考文献であるのか、という解釈の問題と明記しているが、大蔵本は『日本改造法案大綱』について触れてなかった。大蔵の認識は違っていたのかすら、わからない。ただ、大蔵は西田とも大岸とも親密だった。ゆえに、その対立を嘆いてはいる。
 昭和9年11月、陸軍士官学校事件が起こり、村中孝次・磯部浅一らがクーデター計画を練っていたとして拘束された。
 これは村中らのもとに出入りしていた士官候補生・佐藤勝郎が、区隊長・辻政信大尉に通報し、それを辻は片倉衷少佐に、片倉は陸軍次官・橋本虎之助にこのことを報告して明らかになったものだ。
 大蔵は西田宅で佐藤に会っている。やたら蹶起の時期・計画を聞いてきたが、見所があると見ていた。村中はしつこい佐藤をあしらうため、架空の計画を語ったのだが、これが通報されてしまった。
 村中・磯部たちは軍法会議にかけられたものの、不起訴になった。二人は辻・片倉らを誣告罪で起訴したが、これも受け入れられない。村中は陸軍上層部にあてて『粛軍に関する意見書』を提出し、これが問題となって村中・磯部は免官となった。

 このあたりの記述も、大蔵本は村中・磯部周辺に関して詳しく記している。同時期、末松は千葉の歩兵学校にいた。ここで末松は「千葉グループ」と呼ばれる歩兵学校へ派遣された地方からの将校たちで革新派グループを形成していた。上京前、「近く事が起こる」と聞いて、末松は事を起こす覚悟だったため、千葉グループも自ずと同じように考えていた。だがそんな動きは東京の同志になく、むしろ同志たちがその存在に慌てたほどだった。
 このためか、末松は片倉・辻サイドからも一目置かれていたのだろう。士官学校事件で軍部がざわつく中、末松はある士官から片倉少佐に会ってみてはと勧められた。そのことを大蔵に告げると、大蔵は「その士官は片倉のスパイだよ」と言って、警戒を促した。
 今度は辻が末松に会いたいと言ってくる。このときばかりは、革新派将校の中で事件後辻に会ったものがいないとあって、大蔵も「戻ったら話をきかせてくれ」と言って送り出した。
 末松本で、末松は辻に会った当初は、悪感情を抱かなかったと記し、大蔵に対しても同じように語ったが、大蔵は末松が聞いたことを一つ、また一つと一刀両断していった。
 結局末松も、戦後は辻に不信を抱いたのか、末松本でその辻の著作を検証し、士官学校事件と二・二六事件に関する辻の回顧への不信を綴っていた。
 末松と辻に関するやりとりに関して、大蔵は触れていなかった。
 昭和10年8月の相沢事件に関しては、末松も大蔵も詳しく書いている。末松は相沢三郎中佐とは同じ連隊であり、付き合いが長かった。大蔵は事件前日に相沢と合っていた。
 相沢が軍務局長・永田鉄山少将を斬るつもりだと知ったのは、末松の方が早い。昭和10年の正月、付き合いの長い末松・大岸・相沢は東北を旅し、相沢は大岸に任地への帰路、永田を斬ると伝えた。その時は大岸が止めたことによって、相沢は断念した。末松が大岸からそのことを聞いたのは、相沢と別れてからである。
 相沢事件発生の前日、相沢は西田宅で大蔵と会った。そのとき相沢は大蔵に「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴はだれですか」と聞き、大蔵は「永田鉄山ですよ」と即答した。相沢は「やっぱりそうでしょうなァ」と頷いた。翌朝になって、大蔵はいやな予感がして目が覚め、西田の家に行き、相沢は何かをやるのではないかと相談した。
 相沢事件に関する大蔵の記述は、大蔵本の中でも最もドラマチックであり、小説のようでもあった。このあたり、大蔵は誇張しているのではないかと思う。事情聴取の際、西田と口裏を合わせると決めていながら、それが守れなかった大蔵は、拘留場所を抜け出して同じ建物の一室にいた西田に、紙片で包んだ小石を投げ入れたくだりは、もはやスパイ小説である。
 しかし、そのことを知るのは大蔵と西田しかいないのだから、「嘘だ」と否定することは出来ない。

蹶起将校と三人の“距離”

 さて、ここまで読んで、新井の話がほとんど出ないことに、お気づきだと思う。
 実際のところ、新井本は二・二六事件に関する記述が主で、それ以前のことは、当時起きた出来事の概略、青年将校はそれらをどう感じていたかなどが記されてはいるが、末松本・大蔵本のような、将校たちのエピソードはほとんどない。
 文量も、末松本・大蔵本に比べれば、新井本は薄い。しかし、起きた出来事の概略に関しては前二者よりも新井本の方が詳しかった。
 これは、出版された時期が影響していると思われる。新井本は昭和24年と戦後間もない時期に出版された。まだ、戦前の軍部の内情はそれほど周知されていなかったことを考えると、読者のためにそのことを説明する必要があったのだろう。
 末松本が出版されたのは昭和34年。この頃には戦前の陸軍の動静は知られてきて、青年将校自身が眉をしかめる様な青年将校擁護も出てきている。そして大蔵本が出版されたのは昭和46年。同時期、松本清張が『昭和史発掘』を記し、二・二六事件に関して大きく紙幅を割いた。これでより多くの人が二・二六事件を知ることになったが、大蔵が筆を取ったのは、まさに松本の推理する青年将校像・二・二六事件観に異議を唱えるためだった。
 新井本が出た時期と末松本・大蔵本では、世間に流布している情報の精度が違う。新井本が当時の軍部に関して解説的になるのは致し方なかっただろう。
 だが、筆者には新井と革新派同志の距離を感じるのだ。
 二・二六事件で中枢となる磯部浅一・栗原安秀に比べると、歩兵第3連隊の革新派将校は大人しい。中心人物の安藤輝三・野中四郎が口数少なく、革新派としての活動よりも兵士たちと絆を深める軍務に力を入れていたことが大きかった。
 歩三は二・二六事件で蹶起部隊の主力となったが、事件以前に西田宅の会合によく参加していたのは、安藤ぐらいだ。野中などは一度しか参加しておらず、大蔵は会合の席で野中の姿を見た時、「どうしたのか」と驚いていた。

 末松本も大蔵本も、新井勲の名は一度しか出ていない。それも引用したために出てきたのみで、新井とこういう話をしたとかいうエピソードは皆無だった。
 新井本に記された同志に関するエピソードといえば、安藤を中心に、歩三将校たちの話ばかりで、歩三以外の同志の話は見当たらない。相沢三郎に関しても二、三回会った程度とだけ書いている。
 蹶起将校に関して、新井は歩三以外の将校、例えば栗原安秀に対しては皮肉気であり、「民間人」の西田・村中・磯部には批判的だ。事件直前の2月12日、歩三前のフランス料理店「竜土軒」で開かれた村中・磯部・安藤・新井による四者会談でも、民間人である村中・磯部と、現役軍人である自分たちの課された責任の違いをあげて、蹶起に反対している。
 いよいよ蹶起されると、自分に何も言わなかった安藤に「してやられた」と思いはしても、そこには安藤への信愛を捨て切れていない葛藤が見て取れる。
 新井の様子からは、歩三の青年将校たちは他の同志に対してすら閉鎖的だったのではないかと思えるのだ。
 三者の回顧を読むと、最も蹶起将校に近い思想・心情を持っているのは大蔵栄一、次いで末松太平、そして新井勲の順になるだろう。二・二六事件発生時、最も蹶起将校たちから遠くにいたのは大蔵で、最も近くにいたのは新井だった。

そして、二・二六事件へ

 二・二六事件が発生した時、大蔵は羅南、末松は青森、新井は東京に居た。
 大蔵は羅南に転任する前、磯部たちに対し、蹶起は時期尚早と注意していた。そして昭和10年12月段階で、蹶起する空気はなかったと語る。
 大蔵の送別会の席で、蹶起は時期尚早と過激派の磯部・栗原も同意したはずだと大蔵は記す。特に、第1師団の渡満前に蹶起することはないと安心して大蔵は転任していた。もし既に磯部・栗原が蹶起を決意していたら、自分は簡単にあしらわれ、一杯食わされたことになると。だが、大蔵はそう思わなかった。
 先述のように新井は2月12日に磯部・村中・安藤たちと会談し、兵力を動員しての蹶起に反対した。新井は蹶起に参加することになる歩三の中少尉級同志たちの様子を見ても、直前まで蹶起する空気はなかったと語る。実際、その中少尉級が2月26日に蹶起することを知るのは、前日か前々日のことである。
 新井は12日以降、後輩たちに注意を与えようとしたが、それは安藤がやるというのでしなかった。新井はそれこそが同志たちから自分を隔離しようとする安藤の巧妙な策略だったのだと悔しがった。苦々しく綴りながらも、その筆致は安藤への情誼を捨て切れてはいない。
 大蔵と新井の記述からは、暗に自分が青年将校の中でも重要なポジションだったことへの自負心が窺える。だが、革新派の動きを左右するほどではなかった。新井は歩三グループ内限定で重要なポジションだったが、22日の安藤の決意から同志たちの動きに全く気付かなかった。事件時、新井は歩三第10中隊隊附将校だったが、気づいた時には第10中隊の初年兵は同僚の鈴木金次郎少尉に率いられて、蹶起部隊に参加していた。
 第三者の二・二六事件についての記述には噛みつく大蔵だったが、磯部や村中など同志たちの残した記録を見る時は、「信じたくはない」「考えたくはない」と記すことが多い。そこには、自分は同志たちを理解しきれていなかったのではないかという苦悶が感じられる。
 青森にいた末松も、東京の情勢はまったく知らなかった。遠隔地にいた末松と大蔵の行動は似通っている。革新派将校として知られていたため、師団長・連隊長から意見を求められていた。初期の段階では大臣告示の影響もあり、青森の師団上層部は蹶起に好意的だった。そのため末松は東京同志へ激励する電文を打ったのだが、これは同志たちに届かず、むしろ歩兵第5連隊が上京してくるという流言を産んだ。後にこれは、五連隊が当時連隊にいた秩父宮雍仁親王を擁して上京しようとした、という話にまで拡大する。

 大蔵は海を隔てた場所にいたため、大蔵も連隊上層部もどうすべきか考えている間に、奉勅命令が下り、蹶起部隊は反乱軍となった。大蔵は奉勅命令が下ったのに撤退しない同志に怒り、命令に従えという電文を打ったが、これも届かなかった。大蔵が奉勅命令を直接下されていなかったと知るのは、逮捕後のことである。
 同志たちから取り残されてしまった新井は、残った第10中隊の二年兵を連れ、鎮圧側に立つことになった。新井が安藤たちと同志なのは連隊でも周知のはずだったが、謹慎させられることはなかった。
 新井は情勢が同志たちに不利だと悟るや、兵を返すよう度々説得に向かったが、功を奏すことはなかった。やがて新井は、安藤たちが撤退しないのは、戒厳司令部、特に第1師団上層部の曖昧な態度によるところが大きいと見て、上層部への抗議の意味を込めて中隊ごと配置を離れ、靖国神社に参拝した。一時は「新井隊が反乱軍に同調した」と見られて騒ぎになり、新井はこの件で軍法会議にかけられた。
 羅南の大蔵、青森の末松も拘束され、その他各地の同志たちも拘束されて一つ所にまとめられた。
 昭和11年7月12日。死刑判決の下った17人中、磯部・村中を除く15人の刑が執行された。末松本・新井本では当日聞こえてきた銃声と、それに混じって「万歳」という声が聞こえたことを綴っている。大蔵本では前夜から声を張り上げて別れを告げ合う情景が描かれていた。

記録として

 三書のうち、最も感情豊かな筆致で書かれたのは、大蔵本だった。
 その感情は概ね「怒り」に満ちているが、その分、35年前に死に別れた同志たちをどれほど想っているかが伝わってくる。序文で大蔵は「我田引水的にならないよう気を付けた」と記すものの、怒りが高じてか結局我田引水になっていると思える箇所も多々ある。
 末松本は、大蔵本に比べれば淡々としている。大蔵本が既存の二・二六事件観(主に松本清張)を批判することに終始する一方、末松本は自らの経験したこと、感じたことを羅列することで、判断を読者に委ねている。その意図はむしろ本書を文学的にしていた。
 二者に比べれば新井本は概略的だ。しかし、書かれたのは最も古く、それは事件から最も早いことを意味する。その分、記憶に関してもまだ正確さが期待できる。
 古参青年将校である三人は、三者三様の回顧を残し、それぞれの観方で当時を振り返っている。冷静に見直そうとしてはいるが、結局感傷的になっているのも共通している。
 三書を読み比べると、やはり新井本が、他二者との接点が皆無なのが際立つ。先述のように出版時期・紙幅の関係・当事者並び遺族への配慮もあっただろうが、磯部・村中を除けば同志たちの描写は歩三に限定されている。加えて、歩三代表格の安藤輝三・野中四郎は、磯部や歩一の栗原安秀とは性質が違う。青年将校グループ全体で見ると、歩三は異色でありある意味独立していた。
 大蔵は西田税や磯部・村中ら中枢グループの一員だった。末松は東北グループの中心である。そして安藤・野中・新井たち歩三将校を一個のグループと捉えれば、三書はそれぞれ各グループの視点で綴られていることになる。
 だが別々であっても同志であることに変わりはない。意識に差異はあっても、その文章には「同志たちを正しく知ってほしい」という想いが見て取れる。新井本は戦前の軍部の内情がそれほど知られていない時期に出されたが、末松本や大蔵本と同時期に出版されていれば、内容も変わっていただろう。
 最後に、三者は共通して、「皇道派・統制派」という観方を否定的である。新井は「説明するには便利であるが、実体のないものである」と記す。「物の理解のための便宜はあっても、実体の把握には程遠い」とは末松の言である。大蔵は「皇道派といえば青年将校を含めて堅い結束の下に専横をきわめたかの如く誤り伝えているが、実質はそんなものではなかった」と記し、まえがきでは池田純久の著作をこき下ろして、統制派の存在すら怪しんでいる。だが、彼ら当事者のそうした意見が顧みられている様子はあまりない。他ならぬ大蔵ですら、やはり便利ゆえか、「皇道派・統制派」を利用していた。
 しかし、三人は自分たちを指して「皇道派」と呼ぶことはなかった。

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