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二・二六事件私的備忘録(四)「歩三革新派と松尾新一・前編」

山海関守備隊副官・松尾新一大尉

 山海関守備隊副官・松尾新一大尉が二・二六事件発生を聞いたのは、2月26日中であろう。
 第一報が不正確だったことは想像に難くない。直属する支那駐屯軍や関東軍の司令部なら正確な情報が伝わっていただろうが、守備隊にはそこまで回ってこない。ただわかるのは、「東京の一部部隊の蹶起」と「総理大臣・岡田啓介ほか重臣の死」ぐらいだ。
 それから4日間、在京の軍人たちですら情勢を正確に把握出来ていないのだから、外地の部隊はなおのことだ。それでも、歩兵第1連隊・歩兵第3連隊などの将校が兵を率いて蹶起したことは伝わっていたはずだ。首謀者として、歩三の野中四郎大尉・安藤輝三大尉の名も挙がっただろう。
 より正確な情報は、事件解決後に伝わったと考えられる。無論、事件の終結は当日中に伝わっただろうが、何がどうなったのかは解決後にしかわからない。
 死んだと思われた岡田啓介の生存という情報と共に、秘書が身代わりになったことも伝わる。
 その瞬間、松尾新一は父の死を知る。
 岡田啓介の身代わりになった秘書・松尾伝蔵は、松尾新一の父だった。
 そして蹶起した歩三の青年将校たちは、松尾のよく知る僚友たちだった。

軍人の本分

 松尾新一は歩兵第3連隊を原隊としていた。後に歩三から出た蹶起将校たちの中で、最も付き合いが長いのは、安藤輝三である。
 陸軍士官学校を卒業し、見習士官として歩兵第3連隊第11中隊隊附となった安藤の教育を担当したのが、先任の松尾新一少尉だったのだ。
 松尾は安藤を可愛がり、少尉に任官後は、初年兵教育を安藤に任せた。
「兵は大切にしろよ、なにしろ人さまの大事な息子を預かっているのだからな」
 松尾は安藤にそう言った。彼にとっては特に深い意味があるわけではないが、後々のことを考えれば、安藤にとって重い言葉である。
 兵士たちと接するうちに安藤は、彼らのおかれた環境に同情した。安藤の性格ゆえか、兵役を終えた部下たちにさえ心を配るほどである。そんな安藤に感心し、声をかけたのが、鹿児島から転属したばかりの革新派将校・菅波三郎中尉だった。歩三で革新派同志を獲得するにあたり、菅波が最初に見込んだのが、安藤だった。こうして菅波によって革新思想を教えられた安藤は、革新派将校となっていく。
 菅波の東京着任と時を同じくして、陸・海・民の革新派同志の会合、「郷詩会」が開かれた。この席で、さらなる組織強化のための役割分担が決まり、菅波は歩三将校団における同志獲得に本腰を入れていく。
 菅波の同志獲得の戦略は、見事なものである。真っ先に兵隊想いで上官に愛され、部下から慕われる安藤、目立たないながらも人望の厚い野中四郎を同志に引き込み、そこから彼らを慕う見習士官・士官候補生に革新思想を啓蒙していくのだ。二・二六事件において、兵の数でも将校の数でも歩三が与党であったことからも、菅波の戦略は正しかった。
 だが、同格の将校たちからの同志獲得において、菅波は失敗している。
 菅波が目をかけたのが、松尾と森田利八中尉だった。森田は安藤と並んで、秩父宮雍仁親王の信任厚い人物である。
 松尾は、陸軍大佐・松尾伝蔵の息子であり、母方の伯父は海軍大臣もつとめた海軍大将・岡田啓介である。
 松尾と森田、この二人を同志に引き込めれば、将校団に与える影響は大きい。ある日、菅波・安藤・野中は、二人を将校室の一室へ招いた。
 既に菅波たちは見込んだ将校に、北一輝の『日本改造法案大綱』のガリ版刷りを配布している。松尾と森田も用件はすぐ理解した。
 菅波は革新論を語ったが、松尾が頷くことはなかった。

「君らの考えは私にも決してわからないことはない。だが、それはあくまで政治問題である。それほど国内の刷新を望むならば、軍人をやめて代議士にでもなってやるより仕方がない。われわれは軍人であるから、その本分をつくすべきだ」               芦沢紀之『暁の戒厳令』より

 松尾のいう「軍人の本分」とは、軍人勅諭の一節「政論に惑わず政治に拘わらず」である。
 菅波は反論したが、松尾は「軍人の本分」を盾に否定するだけだ。「君らのやろうとしていることが軍人として必ずしも正しいこととはいえない」と。森田も同意見だった。

「君たちが何をやろうと勝手だが、軍人の本分だけは誤らないでくれ、それに連隊や将校団に迷惑をかけたり、兵たちを巻込むことはやめて欲しい」
                     芦沢紀之『暁の戒厳令』より

 松尾の言葉で、会談は決裂した。ここで、席を立った松尾と森田に、それまで黙っていた野中が口を開いた。

「松尾さん、われわれが蹶起の際は、出動の前にまず貴方を血祭りにしてあげますよ」
 松尾は普段温厚で寡黙な野中の言葉だっただけに、やや意外感に打たれたが、やがて苦笑を浮かべながら、
「野中、それが軍人の本分だと信ずるならば、遠慮なくやるがいい。だが俺も軍人だ。君らの出方によっては、俺にも覚悟がある」
                     芦沢紀之『暁の戒厳令』より

 寡黙ながらも苛烈さを秘めた野中には、二・二六事件において安藤を突き動かすほどに急進的であった片鱗が覗えた。
「血祭りにあげる」という言葉は、その場の恫喝に過ぎないが、結果として皮肉な結末を迎えることになる。

「安藤は決して馬鹿な真似はいたしません」

 後味悪く決裂した会談だったが、それで人間関係が崩れることはなかった。松尾は変わらず安藤を可愛がっていた。
 菅波が考えなしに蹶起を推し進めるような人物ではなかったため、歩三における革新派の動きは大人しかった。歩一の栗原安秀が運動に力を入れるあまり、隊務が疎かになり、歩一から千葉の戦車第2連隊に送られたのとは、対照的である。
 安藤にとって革新派の先輩にあたる末松太平は、兵と汗水流して共にあってこそ、革新の衝動が萌え上がってくると考え、隊務に力を入れていた。安藤もそれに習い、隊務に力を入れている。元々安藤が革新思想に傾倒した動機は、兵たちを想ってのことだ。「兵たち農民たちのために」と言いながら隊務を疎かにするのは、本末転倒である。
 そうした安藤の姿に、松尾は安心していた。責任感の強い安藤なら、軽挙妄動はすまいと思ったのだ。
 実際安藤は、経験を積み、担う責任が重くなるほど慎重になっていった。菅波が歩三を去り、革新派将校の中でも存在感が増してからはなおさらである。さらに、安藤は昭和8年に結婚をして家庭を持った。事を起こそうとする者が結婚などするはずがないというのが、この頃の将校たちの常識論だった。
 昭和8年8月、松尾は北京へ向かうことになった。歩三の北京派遣部隊の中隊長が少佐に昇進したため、交代の中隊長を送ることになったのだ。松尾は他に希望者がいないのならばと、交代の中隊長に手を上げた。
 このときの連隊長・井出宣時大佐は、8月の定期異動で着任したばかりである。事前に歩三の革新派将校の動向を聞いていたため、その扱いをどうすべきか心配していた。そんななかで頼りにしようと考えていたのが、松尾である。井出はある日、松尾を呼び、安藤はほんとうに大丈夫か、と問いかけた。
 松尾は胸を張って答えた。

「安藤は思想上はともかくも、軍人としては立派な男です。私のような者がいなくても安藤は決して馬鹿な真似はいたしません。ご安心いただいて大丈夫です」                 芦沢紀之『暁の戒厳令』より

 松尾は10か月後に帰還したが、再会した安藤に人間が変わったような印象を受けた。この間に、安藤は“君側の奸”鈴木貫太郎に会い、その人柄に心服している。また、その影響から将校にも教養が必要と、日本青年協会の青木常盤の協力を得て、民間の識者を招いての講習会を開いたりしていた。革新はもちろん、左右どちらの匂いもしない講習会である。さらに、安藤は父親になっていた。
「どうだ近頃の革新派は」と松尾が問う。松尾と安藤には、こうした問いが出来る気安さがあった。
「私も子供ができましたので、もう浅はかなことはできません」
 安藤の答えに松尾は喜んだ。
「いかがです。安藤は私が申し上げたとおりでしたでしょう」
 松尾は井出連隊長にそう言った。安藤の様子を見てきた井出も、素直に微笑した。
 北京派遣部隊が帰還したのは昭和9年6月30日である。このあとすぐ、7月8日に、海軍大将・岡田啓介に組閣の大命が下った。岡田は松尾の伯父である。その就任と共に、郷里・福井から松尾の父・伝蔵が駆け付け、岡田の秘書になった。


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