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二・二六事件私的備忘録(八)「一番知られている青年将校は?」

 二・二六事件蹶起将校の中で、最も知名度があるのは誰か。
 個人的印象として、磯部浅一が最も知られているように感じられる。次いで、安藤輝三・栗原安秀・村中孝次と続き、野中四郎・河野壽・中橋基明の順で知られているのではないだろうか。
 そう感じるのはなぜなのかを、考えてみたい。

磯部の知名度

 知名度と言ったが、結局のところは資料でどれだけその名が頻出しているかだろう。
 その点で言えば、磯部は中心人物であり、蹶起の原動力だった。
 多くの二・二六事件、あるいは「皇道派」を扱った書籍で、磯部の名は必ず上がる。二・二六事件の原点といえる陸軍士官学校事件から、磯部は行動を開始している。それ以降は、二・二六事件へ至る道程そのものである。
 なにより磯部は、「獄中手記」を遺している。天皇すら批判する苛烈な文章だが、その思想の一端を知る上では、第一級の資料である。
 いわゆる「皇道派」と呼ばれる将軍連の言葉を聞いているのも磯部であり、それを好意的に解釈したのも磯部である。二・二六事件における「皇道派」将軍たちの言動を知る上でも、磯部の存在は欠かせない。
 一方、磯部とはほぼセットで扱われる村中孝次は、磯部ほどの知名度を獲得しているとは思えない。「粛軍に関する意見書」や獄中で記した「丹心録」を遺してはいるが、二・二六事件を中心に見ると、村中の意識(というより青年将校主導部の意識)は直前まで相沢事件公判に向いていた。また蹶起関連の行動はほとんど磯部に引きずられている。
 士官学校事件から二・二六事件が起こるまで、村中・磯部の活動は他から見ても、村中がメインで、磯部がサブという関係に見えたことだろう。中退はしたものの、村中は難関である陸軍大学校に入学したほどの英才だった。「粛軍に関する意見書」を書いたことからも、陸軍上層部に名が知られていたのは、村中の方だったはずだ。
 だがこと蹶起に至って、その関係は逆転した。事件の最中でも、磯部は片倉衷を撃ち、投降にも反対するなどエピソードに事欠かないが、村中の行動・言動は見えてこない。
 磯部の行動・言動は二・二六事件関係の書籍・論文で必ず触れられる。二・二六事件単体であれば、村中について解説せずとも語ることは出来る。だが、磯部に関しては触れぬまま事件を語ることは不可能だった。

学問と物語としての観方

 歴史学として二・二六事件を研究するとき、残された証言・手記は重要な資料となる。そうなると、そうしたものを残した者ほど、書籍・論文に頻出するものだ。
 この点でいえば、安藤輝三は学術的な研究対象としては、有用な存在とはいえない。彼は口数少なく、磯部のように何も書き残していなかった。むしろ、磯部と並ぶ急進派の栗原安秀の方が、事件の最中、証言を残している。
 安藤に会ったことのある人々も、如何に安藤が善人であったかを伝えるばかりで、その思想信条を垣間見せることはなかった。
 安藤の蹶起参画への過程は、兵の動員の是非をめぐる蹶起将校たちの意識の相違が窺えるものだが、ほとんどは安藤の内面的葛藤である。安藤の心情は想像するより他にない。
 同じことは、野中四郎にも言える。蹶起趣意書の草案を書き、将校たちの中では最先任だったことから首魁となった野中であるが、その人柄は伝わっても、なぜ蹶起に参加したのか、そもそもなぜ革新派将校となったのかは、謎である。安藤と同じように、野中もやはり後輩・部下から人望が厚く、なぜ蹶起に参加したのか、同僚将校団も疑問に思うほどだった。野中は自決したため、やはり想像するより他になかった。
 昭和史、昭和陸軍という大きなスケールで二・二六事件を観れば、「皇道派青年将校」と一括りにされる蹶起将校たちは個々人として見られることはない。「二・二六事件」や「青年将校運動」という視点で見て、ようやく個々人の名が見えてくる。だが、「歴史学」として観るか、「物語」として観るかによって、語られる名前は限られる。
 学術の分野で蹶起将校たちを見れば、磯部・村中の行動・言動を見るため、安藤の内面的葛藤や他の将校たち個別のエピソードは触れる意義はない。逆に物語として蹶起将校たちを見れば、安藤の葛藤は避けては通れない。
 観方によって、知られる蹶起将校の名は変わってくる。文章の書き手の主題がどちらにあるのかで書き出される蹶起将校も変わり、頻出する名前も偏っていく。
 面白い事に、やはり磯部は学術面でも物語としてもエピソードに事欠かない。そうした点から、やはり蹶起将校たちの中で最も著名なのは、磯部浅一だと思う。問題は、彼が退官した元・軍人、すなわち「民間人」であるため、厳密には「蹶起将校」とは言えないことだ。

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