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二・二六事件 出動準備 ~安藤輝三と栗原安秀~

 二・二六事件では、1500名もの兵員が動員された。尉官のみで、2名の中隊長の他は中隊附将校ばかりの蹶起将校たちは、いかにこれほどこれほどの兵力を動員しえたのか。準備の中心を担った歩兵第3連隊(歩三)の安藤輝三、歩兵第1連隊(歩一)の栗原安秀の二人の動きを見てみよう。

前段階

 蹶起において誰を襲撃するか。その計画の骨子自体は、2月18日の栗原宅の会合で決められた。
 内容自体は、実際に実行した計画に、豊橋教導学校の同志による西園寺公望襲撃を加えたものだった。翌週中の蹶起こそ決定したものの、この会合で安藤輝三が「時期尚早」と主張したため、具体的内容は詰めないままに終わった。
 その後、22日に安藤が磯部に蹶起への参加を受諾し、同日中に栗原宅で計画が正式決定して蹶起は26日と定まった。この22日段階でも、各員が「一隊を指揮して」目的を達成するとは決められたものの、具体的な兵数は論じられなかった。東京の同志への連絡が始まったのも22日からである。
 中橋基明・坂井直・対馬勝雄などは、22日以前から話を聞いていたが、それは「愈々蹶起」という程度のもので、確定情報を受けたのはそれ以後のことである。中心人物の一人である香田清貞すら、具体的内容を23日に村中孝次から聞いている。他の将校、特に少尉級の将校たちは22日以後に「愈々蹶起」という予告は受けたものの、26日の蹶起を知ったのは前日か前々日のことだった。
 指揮官級が前日に知ったのだから、末端の下士官・兵士たちが出動を知るのは、蹶起直前である。その彼らも、自ら望んで参加したわけではない。彼らを従わせることが出来たのは、将校としての命令権限ゆえであった。

歩三の出動準備

 2月22日から29日までの一週間、歩三の週番司令は第6中隊長・安藤輝三だった。週番制度は、いわば連隊の当直勤務である。連隊長や副連隊長は営外で起居し、朝から夕方まで勤務する。連隊長が帰宅後は、主に古参大尉が一週間交代で週番司令となり、各中隊の週番士官・下士官らを統轄していた。
 週番司令には「緊急を要する事項にして連隊長の指示を請くる暇なきときは自ら之を処断」する権限が与えられている。安藤は蹶起の動員準備にあたり、この権限を最大限利用している。
 25日夜、安藤は第1中隊の坂井直中尉、第3中隊の清原康平少尉、第10中隊の鈴木金次郎少尉に26日午前零時に、昭和維新を断行するため非常呼集を行うと伝えた。週番司令の命令、という形式をとった所以を安藤は、

 坂井中尉の決心は判っておりましたが其他歩三同志将校の決心の程がわからなかったので週番司令の命令として動かしたならばすらすら動くであろうと思った為であります。
                    『二・二六事件裁判記録』より

 と答えている。三人は各中隊の週番士官であった。この命令の効果は強く、清原は安藤との情誼に加えて「週番司令の命令であると云はれ玆に参加することを決意」と述べている。
 機関銃隊週番士官・柳下良二中尉にも、安藤は「週番司令の命令」を伝えている。だがその内容は、坂井たちに下したのとは別の内容である。
 安藤の柳下への説明は、要約すると次のようなものである。
「真崎大将の出廷で相沢公判は被告側に有利な情勢に進展する。それに反発する帝都内左翼分子が密かに都内の治安かく乱運動に蹶起するという情報が入ったので、出動して治安維持に任じる」
 これを理由として、機関銃隊は16個分隊を編成して出動する各中隊に配属せよと命令した。
 この際、柳下は残留して週番司令代理を勤めよとも命じられている。
 柳下は悩んだ。いかに週番司令の命令とはいえ、機関銃隊長に無断で部隊を出すのは適当ではないと、安藤の命令に従うか否か迷ったのだ。結局、機関銃隊長・内堀次郎大尉の自宅に兵を走らせ、判断を仰ごうとしたが、内堀は豊橋の教導学校に出張していて不在だった。後に柳下は、隊長に連絡することを思い立ったのに、なぜ連隊長に連絡しようと考えなかったのか」と問われたが、柳下はそのことは思い浮かばなかったと答えている。
 柳下は安藤の命令に従って編制に取り掛かったが、下士官のみを出して将校だけが残るわけにはいかないと、自らも出動することを決め、当番兵に自宅にある軍刀・拳銃などを持ってくるよう命じた。ところがその当番兵は安藤に見咎められ、柳下は自分も出動することを安藤に話した。
 しかし安藤は必要ないとして、柳下に重ねて連隊に残留して営内を警備し、早朝連隊長に事情を説明せよと指示を出した。
 柳下は坂井たちと違って、同志ではない。青年将校運動からも距離を取っていた。安藤が前述したような指示を柳下に出したのも、同志以外に出動理由を偽る意図があった。
 弾薬の持ち出しも、週番司令の命令で順調に進む。安藤は下士官にも命令の形式をとった。
 以上のように安藤は週番司令の権限を駆使し、出動準備を整えた。麾下の第6中隊下士官に対しても命令として出動を命じている。
 同じ歩三の同志・野中四郎も、麾下の第7中隊に出動を命じた。安藤の命令を受けた坂井・清原・鈴木も、中隊に非常召集をかける。
 歩三が動員した兵力は、第1(坂井)・第3(清原)・第6(安藤)・第7(野中)・第10(鈴木)の5個中隊を基幹に、総兵力は将校を含めて937名に上った。
 命令によって同志を動かし、偽りの命令で他の将校を動かす。善人としてのエピソードには事欠かない安藤であるが、いざ蹶起となったとき、冷徹な作戦指揮官としての一面を見せた。

歩一の出動準備

 歩兵第1連隊における週番司令は、第7中隊長・山口一太郎大尉だった。山口は36歳。蹶起将校たちに比べて年長ではあるが、彼らのシンパである。
 栗原は山口に、蹶起の際には週番司令であってほしいと、山口に頼んでいた。そして望み通り、山口は2月22日から週番司令となった。
 憲兵少佐・森木五郎は、「歩一の山口と歩三の安藤が週番司令の日が危ない」と予期していたが、まさに2月22日から29日にかけて、山口と安藤の週番が重なった。
 しかし山口は、安藤のように蹶起そのものには積極的な関与はしていない。栗原も山口に期待していたのは、黙認だった。18日か19日ごろ、村中孝次・磯部浅一も山口を訪ね、蹶起に際し、歩一の兵力出動を黙認してほしいと頼まれている。山口は賛成も反対もしなかったが、出動前、栗原たちの動きを注意しなかった。
 25日夜半、歩一には村中と磯部の他、河野寿の下で神奈川県湯河原の牧野伸顕襲撃に加わる民間同志が集結した。栗原は歩一に加え、近衛歩兵第3連隊の同志、中橋基明の部隊と、河野隊の装備を整える必要があった。
 栗原は弾薬庫の鍵を持っていた石堂信久軍曹をピストルで脅し、弾薬庫を開けさせた。石堂はそのまま拘束され、栗原は近歩三からやってきた中橋に銃弾を渡し、河野隊にも装備を配分した。
 この頃、豊橋教導学校の対馬勝雄中尉、竹島継夫中尉が歩一に合流する。彼らは興津の西園寺公望襲撃を担当していたはずだが、計画段階で同志間に意見対立が生じ、西園寺襲撃が中止となったため、二人だけで東京の蹶起に合流したのである。
 歩一第11中隊附の丹生誠忠中尉は、22日の計画段階で陸軍省・参謀本部・陸相官邸の制圧という重要な役割を担っていながら、栗原から蹶起を知らされたのは25日のことだった。なぜ前日まで聞かされなかったかについて丹生自身は、自分が総理大臣・岡田啓介の親類であり、情報が漏れるのを計画してのことと見ていた。丹生が同志から信用されていないことをうかがわせるが、言えば丹生なら動いてくれるという信頼はあったのだろう。でなければ、本人の同意を得ないうちに重要な役割を任せていることの説明がつかない。そして事実、丹生は蹶起に参加した。
 栗原は隊附将校であって隊長ではないため、安藤のように命令の形式はとれない。彼は下士官を集めると、愈々昭和維新断行のために蹶起することを告げ、『蹶起趣意書』を読み聴かせた。常々、栗原が教育していたこともあり、下士官たちは蹶起に同意した、と栗原は語る。しかし当の下士官たちは裁判において、これを否定するのであった。
 ともあれ、歩一は出動する。機関銃隊と第11中隊を基幹とする454名である。

下士官兵士はなぜ従ったか

 蹶起部隊の総数は1473名(戒厳警察部作成「叛乱軍参加人員一覧表」に基づく)で、数字から見ても主力は歩三である。
 安藤がこれほどの兵力を動員できたのは、週番司令だったというのも大きいが、歩三における革新派青年将校の層の厚さを感じさせる。歩三の青年将校も、蹶起に意欲的な者、迷う者、否定的な者と様々であるが、兵士たちに命令を下せる隊附将校の同志が、複数の中隊に散らばっていたからこそ、5個中隊(機関銃隊の16個分隊を加えれば実質6個中隊相当)もの戦力を動員できたのだ。同志関係が一つか二つの中隊に完結していれば、これほどの動員にはならなかっただろう。
 これに対して、歩一の層は薄い。参加した将校も栗原と同じ機関銃隊附の林八郎少尉、第1中隊附の池田俊彦少尉、そして第11中隊附の丹生誠忠中尉だけである。
 栗原が習志野戦車第2連隊から歩一に戻ってくる以前、歩一では連隊長・本間雅晴が、隊付中佐の武藤章に命じて、将校たちに青年将校運動から手を引かせるよう指導させた。二・二六事件における歩一青年将校の層の薄さは、このことが遠因とも考えられる。林と池田が少尉に任官した頃、既に武藤は陸軍省に移り、本間も旅団長へと栄転していた。栗原が新たに獲得できた同志はこの二人程度だった。
 中央幕僚を「幕僚ファッショ」と呼んで忌み嫌う青年将校は、陸軍大学校へ入学することすら否定的だ。むしろ隊附将校として兵士たちに直に接することで、国民の不満、苦しみを幕僚たちより深く理解しているという自負が彼らにはあった。青年将校は革新思想を下士官・兵士に広めることを目的にもしていたが、二・二六事件を見ても、下士官・兵士の反応は芳しくなかった。
 栗原は下士官・兵士の自発的参加を望み、兵士たちは彼に従ったが、それは栗原の思想に共鳴したからではなく、入営して以来聞かされてきた、上官命令への絶対服従ゆえだった。安藤の第6中隊も、事件末期まで安藤の指示に従って帰営せず固い結束を誇ったが、当の下士官たちは安藤の思想に同意して行動したのではなく、安藤個人への信頼と尊敬ゆえに従っていた。
 第6中隊の堂込喜市曹長は裁判において法務官から「被告は中隊長の命令が正しいと信じて、行動に参加したか」と問われて、

 偉い人を殺すのは変だと思いましたが、而し侍従長(筆者註:鈴木貫太郎)も或いは道鏡(筆者註:奈良時代の僧侶・弓削道鏡)のような悪い人かも知れない。兎に角、人格者として尊敬する中隊長ではあり、命令に間違はないと信じて参加したのです。
                   『二・二六事件秘録』より

 と答えている。
 また、同じく第6中隊の小河正義軍曹は、法務官と次のようなやり取りをしている。

 法務官(法)「前日検察官の為したる公訴事実に対する意見如何」
 小河(小)「今回に於ける行動は中隊長の意志に賛成し参加したるものに非ず、命令に服従し、行動したるものなり。中隊長の命令は絶対であります。其の事は典範令、読法に明瞭であります。中隊長の命令は陛下の命令であります。其の事の如何を問ひません」
 法「然し、意見具申と云ふことがあるではないか」
 小「それは命令として出す迄の事であります。命令として出たなら、其の善悪は問ふ処ではありません」
 法「夫れでは、お前達は、上官の命令なれば馬や犬の様について行くか」
 小「ついて行きます。これがある為に、日本の軍隊が強いと思ひます」
                      『二・二六事件秘録』より

 蹶起将校にとっても、日本陸軍にとっても皮肉なことに、あれほどの兵力が動いた所以は、命令への絶対服従という陸軍の教育の賜物であり、蹶起将校たちが命令を下す側にあったためだった。

主要参考文献

池田俊彦編『二・二六事件裁判記録』原書房
林茂他編『二・二六事件秘録』小学館
北博昭『二・二六事件 全検証』朝日新聞出版
北博昭・伊藤隆編『二・二六事件 判決と証拠』朝日新聞社
松本清張・藤井康栄編『二・二六事件研究資料』文藝春秋

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