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二・二六事件私的備忘録(五)「歩三革新派と松尾新一・後編」

「松尾さんは伯父さんが特権階級だから」

 松尾が北京で指揮した中隊には、新井勲少尉と坂井直少尉がいた。二人とも、革新派将校である。このうち新井は、北京での勤務で中国農村部の困窮ぶりに思うところがあった。日本の農民は、まだマシではないのかと。結果的にそのことは、新井を蹶起に対して慎重論者にすることとなった。
 菅波が去ったあと、歩三革新派の中心となったのは安藤と新井だった。野中は目立たず、革新派の会合場所であった西田税の家にもあまり行っていない。そのため、西田も野中のことはよく知らなかった。それでも、新井が初めて菅波と会ったのは野中の私室で開かれた集会であったし、若手士官からは慕われている。それでも表に立ったのは安藤と新井だった。
 この二人が、昭和8年から9年の間に、すっかり落ち着いたおかげで、松尾や井出連隊長は胸を撫で下ろした。だが、岡田内閣時代に起こった数々の事件は、不安を抱かせるに十分だった。
 陸軍士官学校事件、天皇機関説問題、真崎教育総監の罷免……数多の事件は、確実に革新派将校を刺激していた。
 そんな中、松尾は再び大陸へ渡ることになった。今度は派遣ではなく支那駐屯軍への転属である。不穏な情勢下にあって、井出連隊長は安藤のことが再び心配になり、二年前と同じように松尾を呼び出し、同じことを訊ねた。

「現在の安藤は、小児的な革新運動に動かされる男ではありません。中隊長としての安藤を信じてやって下さい。むしろ、危ういといえば坂井ですが、坂井一人では何もできません。心配はご無用です」
                     芦沢紀之『暁の戒厳令』より

 松尾はそう応えたが、この頃の松尾は、どうやら安藤に距離をとられていた感がある。
 新井の回顧によると、安藤は岡田啓介に対し批判的で、「松尾さんは伯父さんが特権階級だから」というスタンスだったという。ただこれは、安藤や革新派だけの認識ではあるまい。総理と縁戚というだけで、歩三の内情を直接伝えているのではないかと疑う者は当然出てくる。戦後になって、真崎甚三郎の弟、元海軍少将・真崎勝次は、二・二六事件のとき岡田は事件を事前に知っていて、愛人の家に逃げていたのだと中傷した。その根拠は、蹶起将校の中に義理の甥・丹生誠忠中尉がいたからだった。単純な人間関係から推理した憶測であった。
 ともあれ、松尾は再び太鼓判を押して、大陸へ渡った。当然、首相官邸に立ち寄り、伯父と父に挨拶にいったはずだ。そのとき、歩三の革新派に関して、井出連隊長に言ったことと同じことを伝えて、安心させただろう。
 それが、父との最後の別れになった。

松尾伝蔵の死

 筆者はいわゆる「皇道派と統制派」という派閥対立史観には懐疑的であるが、思想的対立があったことは間違いない。ただそれは、二極構造で分けられるほど単純ではないし、会えばすぐ殴り合うような、険悪なものではなかった。
 安藤たち革新派は要注意人物だったが、だからといって付き合いを避ける将校はいなかった。むしろ、革新派であること自体を話のネタにしている。
 ある日、第3中隊長・森田利八大尉は、野外演習の支度をした安藤に声をかけた。

「おい安藤、今日は何処へ行くのだ」
 と聞くと、安藤の元気な声が跳ね返ってきた。
「森田さん、これから逆賊掃討の演習をやってきます」
                 芦沢紀之『秩父宮と二・二六』より

 現代の我々からすれば笑えない話であるが、こうした会話のできる気安さがあった。
 また松尾も、北京派遣時代に坂井直に陸軍大学校受験を勧めていた。

「革命を達成した暁には、君たちは師団長くらいにはなるのだろうから、普段の勉強が大切だよ。無能な師団長では、俺たちが困るからな」
                  芦沢紀之『秩父宮と二・二六』より

 あるいは、革新派将校たちに何が出来るのかと高をくくっていたのかもしれない。栗原安秀は「ヤルヤル中尉」として有名で、同志からも軽視されていた。坂井も先述のように「心配ではあるが一人ではなにも出来ない」と松尾に評されている。
 そうした意識も、陸軍中佐・相沢三郎による軍務局長・永田鉄山刺殺事件――いわゆる相沢事件で吹っ飛んでしまった。
 相沢事件は革新派将校を「相沢に続け」と駆り立てた。折り悪く、歩一・歩三の属する第1師団の満州派遣が噂となり、「日本をこのままにして満州へ行けるか」という焦りが重なる。
 不穏な中で、昭和11年元旦、歩三の青年将校十数名が、皇居を遥拝した後、首相官邸に挨拶することになった。これは誰となく言い出した不測のものだった。将校たちの中には安藤・坂井・新井・高橋太郎など革新派将校もいたが、証言を残した新井はよく覚えていないという。
 岡田啓介総理は不在で、代わりに秘書・松尾伝蔵が将校たちを出迎えた。時節柄、松尾も官邸の警護官たちも警戒しただろうが、松尾にすれば、息子の同僚たちである。革新派がいると聞いてはいても、息子から軽挙は起こさないと聞いていたであろう。松尾伝蔵は快く彼らを応対した。
 このとき、高橋太郎少尉は、松尾伝蔵が「岡田首相に似ている」と驚いている。写真を見る限りそうは思えないが、ともかく歩三の革新派将校たちは、松尾の顔を知ってしまった。
 だが、運命の2月26日、首相官邸を襲撃したのは歩一の栗原安秀だった。栗原は岡田啓介と見誤って松尾伝蔵を殺害した。元より影武者として死ぬ覚悟だった松尾は、瀕死になっても堂々とし、襲撃者たちを戦慄させ、「これぞ総理大臣」と思わせた。
 事前に岡田の写真すら持っていなかった栗原は、松尾を岡田と決めつけ、「天誅を下した」と宣言した。
 岡田の縁戚である丹生誠忠中尉は、陸軍省・参謀本部制圧に回されていたが、その後首相官邸を訪れ、岡田とされる遺体を見た様子はない。松尾に会ったことのある歩三将校たちも、官邸に行かなかった。
 岡田本人は女中部屋の押し入れに隠れており、秘書官たちと憲兵の尽力で27日中に救出されていた。将校たちが岡田の生存を知り、岡田と思っていたのが松尾伝蔵であると知るのは、拘束されてからのことである。
 かつて松尾新一に対し、「蹶起のさいは、出動の前にあなたを血祭りにあげる」と恫喝した野中四郎は、参謀本部に異動していた前の上官・井出宣時に説得され、自決を遂げた。死んだのが同僚・松尾新一の父だったことを知った可能性は低い。井出が伝えた可能性はあるが。
 新品少尉の頃から松尾に可愛がられた安藤輝三は、麾下中隊に別れを告げた後、自決を図ったが一命を取り留めた。以後はなにも語ることはなく、松尾新一の父が死んだことに関する安藤の所感は残されていない。
 同僚たちの暴挙に松尾が何を想ったか、具体的に伝えているものはない。
 昭和61年2月26日。事件から満50年を迎え、当時の総理大臣・中曽根康弘は、岡田家・松尾家の遺族を官邸に招待した。これは、松尾の妹婿・瀬島龍三が、中曽根内閣のブレーンだったことが大きい。松尾新一とその妻、松尾の妹で瀬島の妻・清子は、事件以来初めて官邸に足を踏み入れ、わざわざ設けられた祭壇にお参りをした。
 それで松尾新一は、区切りがついたのかもしれない。

 新一は最後まで二・二六事件について苦悩し、かつ残念に思っていたようだが、その翌62年に亡くなった。83歳だった。
                       瀬島龍三『幾山河』より

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