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二・二六事件私的備忘録(三)「革新派将校と”君側の奸”」

革新派将校と”君側の奸”

 昭和11年2月26日に起こった二・二六事件において、“君側の奸”と呼ばれた重臣たちと、蹶起将校の間に、直接的な接点を持つ者は少なかった。
 強いてあげれば、陸軍省・参謀本部占拠を担当した歩兵第1連隊の丹生誠忠中尉は、総理大臣・岡田啓介の親類であった。母の姉妹が岡田啓介の後妻で、岡田内閣首相秘書官・迫水久常は、母方の従兄弟だった。
 その程度であり、いざ自分たちが殺す相手がどういう人物なのか、知る者は少なかった。
 首相襲撃を担当した栗原安秀中尉に至っては、襲撃に当たって岡田啓介の写真を用意もせず、影武者を殺害し、岡田を逃す結果となった。
 暗殺の類において、暗殺者がその対象のことをよく知らないというのは、珍しい事ではない。相沢事件において、相沢三郎中佐は事件のひと月前に軍務局長・永田鉄山少将と会談したが、以前から永田を斬ると考えていた相沢は、永田に辞職を要求し、永田はそれを宥めるだけで、相沢は翻意することはなく、永田を殺害するにいたった。
 そんななかで、二・二六事件の首謀者の一人、歩兵第3連隊の安藤輝三大尉は、“君側の奸”と会い、言葉を交わしている。
 それは事件の2年前のことであり、その当時既に安藤は、革新派将校の重鎮であった。
 安藤はその“君側の奸”を殺害しに行ったのではない。ほんとうに“君側の奸”なのか、確かめに行ったのだ。
 天皇の最側近、侍従長・鈴木貫太郎。それが“君側の奸”の名だった。

「ほんとうに”君側の奸”なのか」

 歩兵第3連隊の将校・安藤輝三と、天皇の最側近たる鈴木貫太郎の間を繋げたのは、日本青年協会常任理事・青木常盤だった。
 鈴木は侍従長になる前、海軍軍令部長在任時から日本青年協会の顧問だった。昭和3年に設立した日本青年協会は、青年の教育、リーダーの育成を目的とし、文部省主導の下、軍部の協力を得て発足した団体で、令和3年現在も存続している。
 発起人は元首相・清浦奎吾と元陸相・宇垣一成。また彼らがそうした団体の発足を考えたきっかけは、元老・山縣有朋が遺言で青年教育機関の設立を訴えたことにある。
 設立に際し、清浦奎吾は総裁、宇垣一成は会長となった。顧問には鈴木貫太郎と当時第一航空戦隊司令官であった高橋三吉少将。理事の中には、民間の石坂泰三・菅礼之助・河合良成らに交じって、歩兵第3連隊長・永田鉄山大佐、軍務局課員・今村均中佐が名を連ねていた。
 永田鉄山は第3連隊の敷地内に協会の事務局・修練場を提供した。また青木は神道無念流の使い手だったことから、永田は剣道指南を依頼した。以来、青木は戸山学校から派遣される剣術教官が休みの時には、歩三将校たちに剣道を教えることになった。
 永田が陸軍省軍事課長に栄転すると、後任の連隊長には山下奉文大佐が着任した。だが山下は、世間体があるとして協会を連隊敷地内から裏手にある空き地に移転させた。それでも歩三と協会の出入りは自由だったため、歩三将校たちは変わらずに青木から剣を学ぶため、協会に通った。その将校の一人が、安藤輝三だった。
 既に菅波三郎によって革新派将校としての道を歩んでいた安藤だったが、同志たちが“君側の奸”と呼ぶ人々がほんとうに君側の奸なのか、疑問を持った。昭和9年の話である。
 この頃の“君側の奸”といえば、元老・西園寺公望、内大臣・牧野伸顕、侍従長・鈴木貫太郎らである。特に鈴木は、侍従長の立場を活かして上奏をたびたび阻止していると攻撃されていた。
 だが、将校たちは同じ陸軍の将軍たちならともかく、天皇の近臣である彼らのことを直接知っているわけではない。新聞や事情通から聞くこと程度しか、その人物を知らない。その情報すら、発信者の偏った主観に基づくものだったため、正確ではなかった。
 革新派将校の会合においても、「君側の奸を斬るべし」との声は常に叫ばれる。その場の空気が「ほんとうに誰それは君側の奸なのか?」という問いを生じさせるはずもない。二・二六事件の蹶起直前、慎重論を唱える新井勲に対し、急進派の磯部浅一は「新井君は同志を裏切ろうというのか」と極論を言ったことを思えば、「君側の奸なのか?」などという問いが、会合で出るはずも、出来るはずもない。“君側の奸”は、死んで減ることはあっても、見直されて減ることはなく、一度“君側の奸”となれば、それが揺らぐことはなかった。
 革新派将校の多くは、誰かの“部下”“教え子”だったときに革新思想に傾倒する。そのためか思想に対しては常に受け身であり、末松太平のように自らは破壊消防夫に過ぎないとする将校が多い。だが、年を経て、部下を持つ側になると、考える将校も多かった。
 安藤は“君側の奸”は本当に“君側の奸”かと考えてしまった。師である菅波三郎がいれば、意見を聞き、その答えで満足したかもしれないが、菅波は遠くへ行って久しい。
 そこで安藤は、日本青年協会の関係で鈴木貫太郎をよく知る青木に相談した。侍従長・鈴木貫太郎とは、どういう人物かと。
 青木は「相手の人物を見もしないで、どうして一方的に君側の奸などといえますか」と応え、実際に会ってみることを勧めた。
 こうして、昭和9年1月末、安藤は青木に連れられ、麹町の侍従長官邸を訪れた。

”鬼貫”鈴木貫太郎

 鈴木貫太郎は、日露戦争時、第4駆逐隊司令として活躍した歴戦の軍人である。日本海海戦前には、部下たちに猛訓練を課して「鬼の貫太郎」「鬼貫」と恐れられたが、その訓練の甲斐あって、日本海海戦において第4駆逐隊は3隻の戦艦を沈めた。
 侍従長就任時は海軍軍令部長だった。即位間もない天皇が鈴木を希望したという。侍従武官を務めたこともない鈴木が希望されたのは、恐らく妻たかの存在が大きいだろう。たかは鈴木の後妻で、その前には皇孫御用掛として、当時の皇太子(後の大正天皇)の子ら、迪宮・淳宮・光宮を養育した。迪宮は後の昭和天皇、淳宮は秩父宮雍仁親王、光宮は高松宮宜仁親王である。
 安藤は突然の来訪に恐縮したが、鈴木は鷹揚に応えた。
 意を決した安藤は鈴木に対し、同志間で唱えられる革新論について語り、意見を求めた。安藤の語った革新論は、『鈴木貫太郎自伝』にも書いていないが、安藤に対する鈴木の反論からどのようなものだったかは窺える。鈴木は安藤に対し、三点を挙げて反論している。それを基に、安藤の語った革新論の主旨を大別すると、以下のようになる。

 自分たち将校の運動の目的と、将校がそうした運動をする意義。
 政治的に“純真無垢”な荒木貞夫大将を総理大臣に。
 後顧の憂いなく戦場に赴くために軍の手で農村改革をやるべき。

 鈴木はこれらについて厳しく反論した。
 まず、軍人が政治に拘わることを、軍人勅諭に反するとして否定している。これは「勅諭に反するから」という通り一辺倒なものではなく、具体的に弊害をあげていた。
 政治の要道は甲乙丙丁違った意見を持つもので、それを論議して中庸に落ちつくこと。これが武力をもって論議することになれば、直ちに武力を政治に使うようになり、元亀天正間の戦国時代と同じになる。また常備軍をそうした方向に用いるようになれば、対外戦争のとき、どれほどの兵力を用いられるのか。
 以上のことから勅諭は「政治に拘わらず」とお示しになった、と鈴木は自らの考えを語った。
 荒木貞夫を総理大臣という点にも、一人の人を指定するのは強要することで、天皇から選択する余地を奪い、大権を無視することになると否定した。
 後顧の憂いがあっては戦えないということも、鈴木はフランス革命とその後の革命戦争を例に挙げ、フランス人は親兄弟がギロチンにかけられていようと、妻子が飢餓に瀕していようと祖国の危機に立ち上がったことを教えた。フランス人に出来たことが日本人に出来ないはずがない。日清・日露でも後顧の憂いがなかったはずがない。憂いがあれば戦争に負けるなどというのは誤りであると鈴木は語った。
 鈴木の反論は、天皇親政を目指しているはずの革新派にとっては、矛盾を突き付けられたようなものだった。革新派きっての知識人である大岸頼好・菅波三郎であれば、ここから更に反論(それが正しいか否かは置いておくとして)が出来たかもしれない。だが、安藤はただただ、目から鱗が落ちる心地だった。
 面談は30分の予定だったが大幅に伸びて1時間半も続いた。しかし鈴木は気にせず昼食に誘い、鈴木夫人が用意した昼食を囲んだ。その席で、安藤と鈴木は、天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王という接点があることを知った。
 先述したように、鈴木貫太郎の妻たかは、鈴木と結婚する前、天皇と秩父宮、高松宮宜仁親王の養育を担当し、天皇と弟たちからは母とも慕われるほど信頼を得ていた。
 安藤が士官候補生として歩兵第3連隊に配属されたとき、隊附将校を勤めていた秩父宮がその指導教育に当たった。秩父宮にとっては初めての教官役とあって、特に安藤を可愛がり、イギリスに留学してからも手紙を送り合っていた。
 秩父宮と安藤の接点、安藤の秩父宮への敬服ぶりから、鈴木はすっかり安藤を気に入ったようである。
 こうした繋がりも明らかになって、安藤の方も鈴木に心服した。昼食後、更に1時間も会談した。青年将校と重臣が、数時間も思うところを語り合った例は他にない。受け答えもしっかりしていた。安藤について詳しく書かれた芦沢紀之の『暁の戒厳令』では、「後に行われる荒木、真崎、山下という皇道派の巨頭連中と青年将校の会談にくらべてみれば、月とスッポンの相違である」と評している。
 鈴木貫太郎は決して君側の奸ではない。その思いを強くした安藤は、同志にもこのことを話してみると語ったが、その様子はない。どうやら、安藤から鈴木のことを聞いた同志・渋川善助が、それを止めたようである。
 会談の翌日、安藤は青木を訪ね、こう語った。

「自分は昨夜一晩まんじりともせず考えてみましたが、やはり鈴木閣下は立派な人物です。君側の奸などとはとんでもない間違いです。もし同志があくまで閣下の命を狙うようなときがきたならば、自分は一命を賭しても反対いたします」                芦沢紀之『暁の戒厳令』より

侍従長官邸襲撃

 昭和11年2月26日。革新派将校の蹶起に際して、安藤輝三は蹶起の首謀者となった。
 蹶起には慎重だった安藤は、いざ蹶起となると誰よりも全力で準備に精励し、安藤を慕う歩三の若い将校たちもこれに続いた。
 蹶起を主張していた歩兵第1連隊の栗原安秀中尉に関して、歩三第10中隊隊附の鈴木金次郎少尉は「問題にしていない」と応えていたが、安藤が起つとなるや、同じ第10中隊附の新井勲中尉を除け者にして、蹶起に参加していた。
 この日に蹶起したのも、安藤が歩三の週番司令、歩一の週番司令が同志・山口一太郎大尉だったのが理由である。
 安藤が襲撃を担当したのは、侍従長・鈴木貫太郎だった。
 心服した相手を自ら殺す理由は、心服したからこそ同志の手に委ねるのは忍びなかったのだろう。安藤は兵を率いて、麹町の侍従長官邸を再訪した。安藤隊の襲撃は静かなもので、兵たちは発砲しなかった。鈴木を発見したときも、発見した小隊長は兵に銃の安全装置をかけさせたうえで後退させ、もう一人の小隊長と共に、鈴木を二発ずつ撃っただけだった。事前に安藤を待たずに撃つよう命令されていたとされる。
 だが、安藤は仕損じた。部下に「止めを」と促されて止めを刺そうとしたところ、たか夫人がそれを止めたのだ。安藤は従い、部下たちに敬礼を命じて、その場を去った。
 たかの機転が功を奏した。安藤隊が速やかに撤収するや、たかはただちに血止めをし、宮中に電話をした。これが、天皇が聴く襲撃の第一報だった。
 宮内省からの連絡で医師が派遣され、鈴木は一命を取り留めた。
 事件解決後、日本青年協会の青木常盤は、内大臣・湯浅倉平に招かれた。湯浅は鈴木に対する青木の責任感を慰留した。
 二・二六事件において、安藤の侍従長襲撃に最も衝撃を受けたのは青木である。二年前に紹介したことを思えば、事件に関与していなくとも責任を感じるのは当然だった。鈴木は病床にありながらも、青木がそのことに責任を感じて自決することを心配し、湯浅に説得を依頼したのだった。
 鈴木は自分を襲撃した安藤に対し、恨み言を言わなかった。むしろ、首領ゆえに起たざるを得なかった安藤を憐れみ、自決を試みて果たせなかった安藤を不憫に思った。

「まことに立派な惜しいというよりも、むしろ可愛い青年将校であった。間違った思想の犠牲になったのは気の毒千万に思うのであります」
                  鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』より

 事件の終盤、安藤は麾下中隊に歩三への帰営を命じた後、自決を図った。だが、すぐ病院へ搬送され、一命を取り留めている。
 鈴木貫太郎に関して、安藤は獄中で何も語らなかった。青木は面会を希望したが、果たせなかった。
 昭和11年7月12日、将校15名の死刑が執行された。それにあたり、安藤は以下の辞世を詠んだ。
「一切の悩みは消えて 極楽の夢」
 9年後、生き延びた鈴木貫太郎は終戦に尽力するべく、再び表舞台に立つことになる。



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