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二・二六事件私的備忘録(十六)「組織なき青年将校たち」

 昭和11年2月26日。総理大臣始め、重臣の命を狙い、昭和維新を果たそうとした青年将校たち。だが彼らは、自分たちの組織を持たなかった。
 なぜ彼らは、名のついた組織を持たなかったのか。

天剣党

 昭和2年7月。天剣党なる組織が、陸軍を騒がせた。
 創設者は西田税。元陸軍軍人の右翼活動家である。
 天剣党は、北一輝の『日本改造法案大綱』を経典とし、その実現のために実力行使も辞さぬことを掲げて組織された集団である。その同志には、民間人のみならず現役陸海軍将校も名を連ねており、そのことが大きな問題となった。
 だが、こと天剣党で迷惑を被ったのは、その同志将校たちであり、怒ったのもまた彼らだった。
 その青年期初期において、西田の思想はアジア主義だった。彼は幼年学校の頃から満蒙独立運動の話を聞いてアジア主義に傾倒していたが、それは半ば少年らしい冒険への憧れから来るものだった。
 士官学校に進んでからも、その心は変わっていない。彼は騎兵科を希望し、原隊には朝鮮半島の連隊に志願した。朝鮮駐留の連隊勤務など希望者も少なかったため、教官たちは喜んだが、西田の満蒙独立運動への憧れを見れば、彼が士官学校に進んでなお、満蒙の平原を馬で駆け抜けることを夢見ていたのは明らかだ。
 西田は士官学校で同志を得て、アジア主義に関して学んでいく。だが、満蒙独立運動の失敗、辛亥革命の失敗もあって、日本人活動家によるアジア解放運動は下火になっていた。活動家たちは老い、若い西田たちが話を聞きに来るのを喜んだが、巨頭・頭山満などは、軍人のままそうした活動に走る西田たちに、「まず軍服を脱ぎなさい」と厳しい言葉を浴びせている。
 少年から青年になろうとする西田たちも、アジア解放の難しさと現実を知っていった。士官学校に留学していた中国人留学生とも会合を持ったが、ナショナリズムの違いから距離を置いている。やがて西田は、アジア解放の前に、まずは日本を改造せねばならないと考えるようになった。そして卒業が迫るや、西田は原隊に朝鮮の連隊を希望したことを後悔した。日本を改造するための運動は、朝鮮では遠すぎたのだ。
 西田は朝鮮の羅南に赴任後も、東京に戻ろうと画策する。ただ、僻地であろうとも衝動は抑えきれないのか、国家改造運動の啓蒙活動を怠ることはしなかった。このため連隊上層部からは要注意人物と見なされ、東京に出るために憲兵科への転科すら申し出たが却下された。
 なんとか広島の連隊へ転属になったが、活動に問題があるうえ、元々病弱だった西田は病気となり、療養のために予備役編入を願い出て受理された。故郷鳥取県米子での療養の後、西田は東京へ進出する。
 身一つで東京に進出した西田を助けたのは、士官学校の頃から運動関係で世話になって、尊敬もしていた満川亀太郎だった。大川周明・北一輝と並んで「猶存社の三尊」と呼ばれる満川は、北の『日本改造法案大綱』に感銘を受け、辛亥革命後上海にいた北を日本に呼び戻した人物だった。
 この満川の紹介で、西田は大川周明の世話になる。大川は当時、江戸城本丸の天守跡に近い大学寮と呼ばれる社会教育研究所を主宰しており、西田はここで、機関誌『日本』の編集と、軍人であることを活かし、軍事学について民間の青年たちに教えていた。
 一方で、やはり軍人であることを活かし、軍人に改造思想を啓蒙し、同志の獲得を図っている。主に士官学校生徒たちが、予科卒業後原隊に着任し、その間に先輩将校によって改造思想を埋め込まれ、東京に戻って更に深みにはまる、というのが当時のパターンであり、西田の役割は最後の深みにはめることだった。
 青森歩兵第5連隊の大岸頼好などは、後輩の末松太平が士官学校本科入学のために上京するとき、西田を訪ねるよう言っている。思想的に西田と大岸にはズレがあったが、このころは活動そのものを阻害するほどではなかった。
 こうして西田は同志を獲得していったが、同時期、大川と北の間に対立が生じ、やがて修復不可能なほどに決裂してしまう。そしてこの時、西田は大川の下を離れて、北の下へ走った。大川は陸軍中央幕僚たちと繋がりが深く、後に未遂に終わったクーデター計画、三月事件にも関与している。そうした点が西田の不満となっていた。実際のところ「猶存社の三尊」の中では、西田と一番繋がりが薄いのは、北一輝だった。
 だが、大川の下を離れたことが、軍人同志の反感を買った。「大川の下に人を集めておいて」と純粋な士官学校生徒同志たちは西田の不実を詰った。多くは改造思想はそのままに、西田と距離をとるようになる。西田が怪文書問題で北と共に恐喝罪で収監され、ついに陸軍を免官になると、士官学校以来の同志たちも離れていった。北との恐喝事件に絡んで、そうした民間の胡乱な輩とつるむようになった西田に、古参同志たちも困惑したのだ。
 そんな時に、西田は天剣党を結成する。「趣意書」「規約」「同志名簿」を各地の同志に配布したのだ。だが「同志」とされた人々こそ、天剣党のことなど何も知らなかった。多くの将校は突然西田から送られ、困惑した。
 天剣党に関する文書は、すぐ憲兵隊の入手するところとなり、各地の同志たちはそれぞれ憲兵隊の取り調べを受けた。青森歩兵第5連隊の末松は、やむなく西田との関係を述べ、改造思想を持ってはいるものの、天剣党については知らないと答えた。
 この件に関し、さすがの西田も同志たちに謝罪した。だが、そもそも「名簿」が大川の大学寮の機関誌『日本』の購読者名簿とほぼ一致することが、西田への反感を助長することになり、さらに多くの人が彼と距離を置くことになった。
 大川の下から北の下へ走ったことで反発を買い、恐喝事件で軍を追われ、民間同志との付き合いから古参同志から不信を抱かれ、とうの民間同志からも疎まれ、その果てに天剣党立ち上げである。
 陸軍上層部は特にこれを重要視しなかった。問題にこそなりはしたが、調べてみれば西田の独走である。調べる憲兵側も穏やかなもので、このことは一部同志に改造思想の理解者は多いと錯覚させた。「愛国心から出たことだから」と陸軍上層部は天剣党を不問に付した。だがそもそも、この頃の西田は軍を免官になった民間人である。形として天剣党事件は、「民間の活動家が軍人に怪しげな文書を送り付けた」事件だった。送り付けられた将校たちを裁きようがない。
 当事者の末松太平の、天剣党への見方は冷淡だった。何と書いてあったのかも覚えておらず、それを収録した資料(おそらく『現代史資料』のこと)もあることは知っているが、見返すつもりもない。過激な文書はともかく、同志名簿を付した西田の軽薄さに失望し、発足しかけた青年将校運動は天剣党事件で中絶状態になった、とまで断じている。
 実際、西田と青年将校のつながりは、ここでいったん途切れた。十月事件の際、西田は同志の菅波三郎、そして末松の仲介で、橋本欣五郎一派と提携した。橋本側は西田を、北一輝の思想実現を目指すグループのリーダーと目していたようだが、実際には何の指導力も持っておらず、それどころか民間同志の井上日召、海軍同志の藤井斉からも信頼を失いつつあった。
 だが、十月事件と後に起きた五・一五事件をきっかけに、西田の周囲には、再び人が集まり始めた。

郷詩会と五・一五事件

 十月事件で発覚する橋本派のクーデター計画が進行する一方で、北一輝の思想に影響を受けた青年将校・民間同志も、俄かに組織的にまとまる必要性を感じ始めた。
 仙台にいた大岸頼好は、末松が東京の戸山学校に入校するや、全国同志を集めての会合を開くので西田と話して会場の手配を依頼した。折しも、菅波三郎が歩兵第3連隊に着任した直後である。水面下で進行中の橋本派の計画と合わせて、大岸も「何かが動き出している」と感じた。
 こうして陸・海・民の改造思想を持つ同志たちが集結した会合、「郷詩会」が開かれた。血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件の主要メンバーが名を連ねた重要な会合だったが、結局は互いに方向性の違いを認識するだけに終わった。
 大岸は今回の会合を組織固めと顔合わせに留めるつもりだった。だが、血盟団の井上日召や海軍の藤井斉がこの会合を直接行動に結びつけようと考えていることも理解していた。そのうえで「まだこの場の全員を同志と見るのは早計だからね」と末松に洩らした。
 常に陸に居て、いざとなればすぐに起てる陸軍に比べて、海軍は海上勤務が主である。海軍側中心人物の藤井は土浦の航空隊に居たが、他の海軍同志は海上勤務の者も少なくなく、中にはわざわざ休暇をとって駆け付けた者もいた。だからこそ、今決起したかった。次にいつ陸に上がれるのか、海軍側はわからなかったのだ。藤井にしても、今こそ土浦に居ても、いつ海上勤務になるかわからない。事実、藤井はほどなく、空母《加賀》勤務となり、上海事変発生を受けて出動し、偵察飛行中に撃墜された。日本海軍パイロット最初の戦死者である。
 海上勤務にあたり、藤井は海軍同志たちに後事を託した。それで藤井が志半ばで非業の死を遂げたのだ。ここで起たねば嘘になる。
 藤井の戦死後1週間と経たず、井上日召に繋がる小沼正が、元大蔵大臣・井上準之助を暗殺した。一月後には三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺された。ここで井上一派が捕縛され、一連の暗殺事件は「血盟団事件」と呼ばれた。
 そして五・一五事件が起きる。藤井の同志たちの蹶起だった。これで海軍側の国家改造運動は頓挫した。
 事件のさなか、西田が同志である川崎長光に襲撃され、重傷を負った。蹶起に対し、「時期尚早」を主張する西田に、海軍側同志は不満を募らせ、「西田を排除すれば重石のとれた陸軍側同志も起つ」と見て、西田を排除しようとしたのだ。
 西田はすぐ順天堂大学病院に運び込まれ、手術を受けた。するとすぐに北一輝が駆けつけ、以後献身的に西田を看護した。このことが西田と北の絆をより強めることになった。また、西田遭難を知って病院に駆け付けた陸軍側同志たちは、以後西田宅に出入りし、二・二六事件の中枢メンバーになる人物たちだった。
 五・一五事件を受けて、陸軍側も国家改造思想を持つ将校に厳しい目を向けるようになった。
 永田鉄山は、事件を受けて陸相・荒木貞夫を訪ねてきた菅波を捕まえ、「お前たちがそそのかしたのか」と詰った。そして8月の定期異動で、菅波は大陸の新京への転属が決まった。鹿児島の連隊に居た頃と歩兵第3連隊に転属してから、たびたび大陸に派遣されていた経験を買われたこともあるが、一年前に第3連隊へ転属したばかりだったのに、転属である。時期を見ても、左遷なのは明らかだった。士官学校に勤務していた村中孝次も原隊のある旭川へ戻された。
 大岸は相変わらず仙台に勤務しており、末松は満州事変もあって、十月事件後満州派遣を命じられて戦地にある。東京に残された国家改造運動の同志たちは、ほとんど十月事件を通じて運動に参画していた。しかもほとんどは菅波を通じてである。
 井上日召が収監され、藤井斉が死に、菅波が東京を離任した今、在京の国家改造運動の大物は、西田のみとなった。自然と将校たちは西田の家に集まるようになった。
 在京時、菅波は西田を立てる形で活動していた。栗原・香田・村中らはまず菅波と会い、それから「西田に会ってみないか」と誘われる。一部は西田を経由して北一輝に会った。西田に会うのは運動へ参画する儀式のようなものだった。
 菅波は東京に来たばかりで、地盤がない。第3連隊では着実に同志を増やしていたが、他部隊の同志たちを糾合するのは難しかった。そこで東京に地盤を持ち、一時は同志将校たちの信頼を失いはしても、元軍人であることから新参の同志将校も親近感を抱きやすい西田である。
 結果として菅波がいなくなっても、同志たちは西田宅に集まった。だが、菅波の直接の影響下にあった第3連隊将校と西田の関係は良好とはいえない。彼らは「蹶起の時期は菅波の判断に委ねる」としており、連隊内で啓蒙はしても目立った活動をしなかったのだ。西田宅での会合に頻繁に参加するのは安藤輝三くらいで、彼もあまり発言をしなかった。新井勲などは「青年将校は部外者によって動かされることを極端に嫌った」と語り、西田は元騎兵少尉ではあっても現役ではないとして、隔意を隠さなかった。
 ともあれ、西田宅に集まりだした青年将校たちだったが、西田の「下」に結集したわけではない。過激派の栗原安秀は常々蹶起を主張し、実際に埼玉挺身隊事件に関与して歩兵第1連隊から転属になっている(すぐに戻るが)。
 将校たちは一つ所に集まりはしたが、天剣党や藤井の結成した王師会のような、組織を立ち上げはしなかったのだ。
 十月事件で倒れた橋本派が、反面教師となったのだろう。橋本派の会合は常に料亭を借りた宴会とセットだった。幹部の長勇などは、宴会帰りに酔っぱらって、駅のプラットフォームで「俺は誰それを斬るのだ!」と叫んだ。彼らの属する桜会も特に資格も審査もなく、自由に参加出来た。ゆえに規模は大きくなったが、密なるを要すはずのクーデター計画としては、あまりにも目立ちすぎた。
 計画が発覚した後、橋本派は密告した犯人を捜し、「外部」である西田を疑った。だが、当時参謀本部作戦課長だった今村均は、密告してきた者として池田純久、根本博、影佐貞昭を挙げている。
 青年将校たちは十月事件以来、佐官級を中心とする改革志向の将校たちを「幕僚ファッショ」と呼んで忌み嫌った。事件後は宴会ばかりだった橋本派を模倣せず、会合は西田宅や将校らの私宅で開くようになった。
 その会合も、直接行動の具体計画を練っていたわけではない。主として、国家改造運動の啓蒙や、情報共有の場所となった。特に、西田や渋川善助など民間同志からの情報は、二・二六事件における重臣殺害の直接的動機の情報源となった。
 かつて永田鉄山らが主宰した一夕会、その母体となった二葉会、木曜会も、名目上研究会だったが、青年将校たちは研究会の体裁をとることもしなかった。見込んだ者を招き、啓蒙する。少なくとも陸軍士官学校事件まではそうだった。
 士官学校事件では会合に参加した士官学校生徒が、村中にしつこく蹶起の具体的計画を聞いてくるので、村中はその場しのぎで適当な重臣殺害計画を洩らした。すると生徒はそれを士官学校区隊長・辻政信に密告し、辻は片倉衷にこれを報告し、村中と磯部浅一らが拘束される事態となった。
 結局村中たちは不起訴になり、辻も処分はされたものの厳しいものではない。村中は辻を誣告罪で訴えたが、それが通ることはなく、むしろその過程の行動が問題になって、村中・磯部は免官になってしまった。
 同志たちは村中に、なぜそんな適当なことをと苦言を呈したが、村中は「生徒があまりにもしつこくて」と答えるだけだった。
 士官学校事件とそれに続く村中・磯部の罷免を、西田たちは「永田鉄山ら幕僚ファッショの陰謀」として広く喧伝した。こうした宣伝を担当したのは西田・渋川で、民間人になってしまった村中・磯部も、そうした活動に参加していく。他方、現役軍人たる同志たちの中には、直接行動を主張する声が大きくなった。
 士官学校事件が起きた昭和9年の末。すでに相沢三郎は任地へ戻る帰路、東京で永田を斬る、と大岸に相談した。大岸が何とか宥めて相沢は翻意したが、翌年8月、相沢は白昼陸軍省において、永田を斬った。
 いわゆる相沢事件後、青年将校たちの間には二つの動きが生まれた。相沢の行為を「義挙」と宣伝し、裁判を通して昭和維新の機運を高めようとする動きと、「相沢に続け」と武力蜂起を目指す動きだ。
 西田・渋川ら民間人は前者を志向したが、磯部や現役軍人たる栗原安秀は後者を志向した。公判が始まると渋川は歩兵第3連隊営門前にあるフランス料理店「竜土軒」で、傍聴してきた公判内容を歩一・歩三の同志将校たちに語り、その意識を高めようとした。だがその裏では、磯部・栗原たちが武力蜂起を目指し、安藤輝三を説得していた。
 青年将校たちはいわば、「有志の集まり」だった。組織・集団的統合がなかった分、それぞれが好きに動こうとし、直前になって同志に決意を明かし、同志がそれを止める、という事態が何度も起こっていた。

虚構のリーダー、西田税

 青年将校たちが明確な組織を作らなかったのは、憲兵や警察など治安機構に目をつけられないためだろうが、明快に指導者と仰げる人物を欠いていたことと、自分たちの中で上下関係を築くのを避けたからだろう。
 軍内部の派閥を、「皇軍の私兵化」と非難していた彼らである。一人の指導者を立てることは避けたかった。
 軍隊という階級社会に身を置きながら、階級差で同志を指導しようとする者は皆無だった。基本的に青年将校たちは自分を運動に目覚めさせた人を慕い、その教えと判断を第一としている。相沢三郎は青年将校たちに比べて一回りも年上だったが、大岸を慕い、村中たちを敬った。
 末端どころか、末松のような古参、安藤のような重鎮もこうした姿勢だった。末松は「破壊消防夫」を自認し、建設案を考えるのは大岸に任せている。安藤もまた同じ姿勢だった。安藤と同じく菅波の啓蒙で運動に参加した新井勲は、「直接行動(蹶起)の判断は菅波さんに任せます」と、菅波に委任していた。
 大岸・菅波の不在は、西田の存在感を高めはしたものの、新たに集まった同志は西田の啓蒙によって運動に参加したわけではないのだ。
 面白いもので、新たに西田のもとに集まった将校たちは、天剣党事件で「被害」を受けていなかった。だが、西田のそうした「前科」を思えば、西田自身、率先してリーダーシップを発揮することに慎重にならざるを得ないだろう。
 もともと郷詩会では陸軍は大岸、海軍は藤井、民間は西田が中心に運動を進めると取り決めたが、それぞれの方向性の違い、血盟団事件と五・一五事件によって、郷詩会での取り決めも空中分解していた。また、大岸は東京にいることが少なく、指導力を発揮できていない。
 士官学校事件前、北の『日本改造法案大綱』をこのまま自分たちの聖典とするか、ただの参考文献とするかで、西田と大岸の間で対立が生じた。大岸の教えを受けた将校が仲裁を図るも、かえってその将校と西田が対立することになり、青年将校たちの間に亀裂が生じかねない問題となった。
 双方と繋がりを持つ将校や、渋川善助は仲裁に走り、満州から末松が帰還することが決まると活発に動き出した。このとき、青年将校たちは西田派と大岸派に分かれつつあったが、むしろ激しく対立していたのは十月事件以後に参加した将校同士で、末松ら古参の将校たちは対立解消に走り回った。内輪揉めを最も憂えたのは、古参将校たちだった。
 大岸と西田の決裂に発展すれば、そのとき差別化を図るために西田が在京の青年将校たちを中心に、組織を立ち上げたかもしれない。だが、大岸・西田の対立は士官学校事件の発生もあって有耶無耶となり、分裂は避けられた。
 二・二六事件で西田は北と共に首謀者として死刑に処された。だが、蹶起した青年将校たちは二人の関与を否定し、当時の警察関係者もその措置には疑問を示している。
 元軍人とはいえ、西田は民間人だ。世代を経るにつれ、彼を軍人扱いする者は少なくなっていく。新井勲はまさにそれであった。
 実情はともかく、西田は十月事件の頃から青年将校グループの頭目と目されていた。彼自身の活動が目立っていたこともあるだろうが、事件後、橋本が西田との会談を望むあたり、西田を一勢力のトップと橋本は見なしていた。また、青年将校側から不興を買った橋本のクーデター後の組閣案では、北一輝も閣僚入りしている。
 二・二六事件発生後、陸軍部内が作成した「昭和維新内閣」の予想閣僚名簿にも、やはり北・西田の名が並んでいる。軍部にとって、西田は常に青年将校たちの中心人物だった。だが、蹶起に参加した末端の将校たちは西田とはほとんど会ったことはなく、北とも面識がなかった。西田にしても、首魁である野中四郎とは一、二度会った程度でよく知らなかった。竜土軒で開かれた相沢公判の報告会でも、司会は渋川で、西田は顔を出したことはなかった。
 西田とは同志でないものの士官学校時代の同期である岩崎豊晴は、昭和11年2月24日に突然西田の来訪を受けた。西田は近く行動を起こすことを告げ、別れを告げにきたというのだ。岩崎は翻意を促したが、「今回ばかりはもう止められない」と西田は頭を振り、西田がこれほど覚悟しているなら、もう止められないと岩崎は思った。
 ところが蹶起に参加する者の中に、かつて教え子だった竹島継夫中尉がいると聞き、岩崎はせめて竹島だけでも止めてくれと頼んだ。だが西田は「俺にも計画の内容はわからないのだ」と答え、「そんな馬鹿な」と岩崎を愕然とさせた。「貴様にろくな相談をせず、奴らは一体何をやろうとしているのだ」と。
 岩崎は西田の活動を士官学校の頃から知ってはいるものの、それに参加したことはない。むしろその頃からの同志たちが西田から離れて行き、彼が軍を免官になってからも友人であり続けた。そのためか西田や青年将校には同情的である。
 その彼をしても、やはり西田は青年将校たちに絶大な影響力を持っているはずだった。
 明確な組織のない青年将校たちに対し、西田は指導力も統制力も持っていなかった。だが、常々名の知られていた西田宅に集まっていたことが、彼を「青年将校たちのリーダー」と周囲に解釈させた。

「青年将校」

 組織も名も持たない青年将校たちだったが、彼ら自身も自認し、他からも呼ばれていた名詞はあった。
 それが「青年将校」である。
 一般的に青年期の軍人を指す言葉だが、昭和初期において「青年将校」は、「国家改造や昭和維新を目指す若手将校」を指す言葉になっていた。
 青年将校運動という言葉もある。これは後からつけられたものではなく、当の青年将校たちも自認していた言葉だ。
 二・二六事件前後、「青年将校に物を訊く」という記事が雑誌に載った。インタヴュー形式で現役青年将校に「青年将校運動」について話を聞いた内容である。記者は栗原と付き合いのあった和田日出吉、質問を受ける将校は、山口一太郎・栗原安秀・安藤輝三とされている。発表そのものは事件前後だが、インタヴューそのものはそれより一、二ヶ月前と見られた。
 また、事件後青年将校を取り調べた憲兵大尉・大谷敬二郎は回顧録の中で当時の青年将校の様子を綴っている。大谷は荒木貞夫邸に「荒木、いるか!」と出入りし、酒を飲んで騒ぐ青年将校たちを「博徒のごとき」と記して、嘆いていた。
 青年将校・大蔵栄一は、回顧録でこの部分を引用し、大谷を批判した。当時の青年将校といえば、自分たちを指していると考え、自分たちは荒木邸で騒いだことはないと否定したのだ。また、同志たちの性格も述べ、「博徒のごとき」者は一人もいないと書いた。
 大谷は大蔵たちを名指ししていたわけではないが、大蔵の筆が進むにつれ、「大谷は根拠のない話で自分たちを博徒と呼んだ」ことになっていた。
 昭和陸軍について記した書物で、「若い将校」という意味で「青年将校」を使用している例は、知る限りでは見たことがない。例えば、辻政信などは青年将校たちとは同世代だが、彼を指して「青年将校」と呼ぶことはない。彼自身、強烈な個性とイメージが確立されていることもあるが。
 思想を啓蒙するうえで、「日本を救うのは何々なのだ」と、自分の属する社会的階級を名指しされれば、否が応にも意識せざるを得ない。内にあっては同階級間の結束を高め、外においては他の階級からの警戒を抱かせる。
 実際、菅波は将軍・幕僚たちでは責任上直接行動の決断はできないとして、自分たち青年将校が日本を救うのだと扇動していた。
 青年将校運動は、彼らに「革新・維新の先駆け」という、ある種のエリート意識を抱かせ、それをもって彼らは中央幕僚に対抗した。
 だが、新井勲は記す。

 統帥権の独立を鼓吹された青年将校は、自らは陸軍の正義派と信じ、陸軍全体のためと思い、相沢中佐の後を追って蹶起したのである。彼らは派閥打倒のために蹶起した。そして自らはまた一つの派閥をなしている点には全然気づかなかった。
                   『日本を震撼させた四日間』より

 青年将校たちが組織を持たなかった所以は、すでに陸軍という組織に属していたからだった。だが、それがすでに派閥となっているとは考えなかった。「とかく人間は、他人を吟味する際は厳格であるが、自分を吟味する時ははなはだ寛である」と新井は続けている。
 理想の高さに比して、彼らの視野は軍人の域、将校の域を出ることはなかった。その意識・視野がどのような結末を辿ったかは語るまでもない。
 二・二六事件後、組織を持たない青年将校たちは、「皇道派青年将校」として、皇道派の一派となった。生き残った青年将校は、その回顧録で必ず皇道派との関係を否定していたが、省みられることはほとんどない。
 末松太平は回顧録に以下のように残している。

 単純に物事を考えたがるものは、これらを皇道派、統制派と分類するけれど、それには一応物の理解のための便宜はあっても、実体の把握には遠い。
                         『私の昭和史』より

 そんな元青年将校たちも、結局は「皇道派青年将校」という言葉を使っている。それは末松のいう通り、「理解のために便利」だからだった。

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