蹶起将校の生死を分けたもの ~丹生誠忠を中心に~
二・二六事件最中の蹶起将校を写した写真といえば、安藤輝三を正面から撮ったもの、兵を率いる栗原安秀を撮ったもの、そして集まった兵士たちに何かを語る丹生誠忠を撮ったもの、この3点程度である。
安藤・栗原は事件の首魁であり、知る人は多い。一方、事件時の写真が残される数少ない存在ながら、丹生誠忠はあまり知られていない。彼は一隊の指揮官ではあるが、首魁ではなく、殺された重臣の殺害にも関与してはいない。だが彼には、他の青年将校にはない特筆すべき経歴があった。それは、二・二六事件で命を狙われた総理大臣・岡田啓介と親戚関係にあったことだ。
今回は丹生という人物と、死刑と無期禁錮に分かれた蹶起将校への判決から、何が彼らの生死を分けたのかを見ていきたい。
丹生と岡田の繋がり
丹生誠忠と岡田啓介は、間に4人の親類を挟んで繋がっている。
一人は、丹生の母・広子である彼女は鹿児島出身の陸軍中将・大久保利貞の娘で、同じく鹿児島出身の海軍大佐・丹生武彦に嫁いで、誠忠を生んだ。広子の姉、丹生にとっては伯母にあたる歌子はこれも鹿児島出身の陸軍退役大尉・迫水久成に嫁いだ。この迫水久成の妹・郁の嫁ぎ先が、岡田啓介だったのである。岡田は前妻と死に別れていたため、郁は後妻だった。
母・広子、伯母・歌子、義理の叔父・迫水久成、義理の叔母・郁、この4人を経て、丹生は岡田啓介と繋がっていた。いわば丹生と岡田は、義理の甥・叔父の関係だった。
丹生と岡田の繋がりはそれだけだったが、迫水家の方は岡田家との繋がりを深めている。久成の長男・久常は岡田と前妻の娘・万亀と結婚し、娘・清子は岡田の妹婿・松尾伝蔵の息子・新一に嫁いだ。久常も清子も丹生にとっては従兄妹にあたる。
また、余談だが、丹生は事件で襲撃対象となった牧野伸顕とも遠縁である。丹生の祖父・大久保利貞は、牧野の父・大久保利通とは従兄弟に当たるのだ。利貞・利通の祖父・利敬は、丹生にとっても牧野にとっても、そして迫水久常にとっても、共通の祖先にあたる。
利貞の息子で、丹生の母・広子の弟である大久保利隆は外務官僚で岡田内閣が成立すると、甥・久常と共に首相秘書官となっていた。
丹生と岡田の直接的交流があったかを示すエピソードは少ない。それでも岡田は二・二六事件の起きた昭和11年に年始の挨拶に来た丹生と快く会い、官邸内を見学したいという丹生の頼みも聞いて、官邸職員に案内させている。また、事件が終息に向かいつつあるとき、生還した岡田は丹生の従兄である迫水に、丹生が蹶起部隊にいることを確認するなど、気にかけていた。
革新思想への目覚め
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