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二・二六事件私的備忘録(二)    「現役将校にあらざれば同志にあらず?」

「失礼ですけど一介の地方人です」

 昭和11年2月12日、麻布歩兵第3連隊(歩三)営門前にあるフランス料理店・竜土軒において、革新派将校たちの会合がもたられた。この時期の会合は主に、先年8月に起こった相沢事件の公判についての情報共有を主としていた。だがその裏では、蹶起の是非を巡る激論が交わされていた。
 蹶起を目指す急進派は、磯部浅一・村中孝次、そして歩兵第1連隊の栗原安秀だった。彼らにとってネックだったのが、慎重派の歩三の同志たちだった。
 昭和6年に菅波三郎が歩三に着任して以来、革新派の中で歩三は一大勢力となっていた。兵を動員しての蹶起を目指す磯部たちにとっては歩三の協力が不可欠だったのだ。
 その日の会合でも、磯部・村中は歩三将校の代表二人と個室で激論を交わした。歩三の代表は安藤輝三大尉と新井勲中尉。二人とも菅波によって革新派に参加していた。特に、安藤の人望は絶大である。
 だが、安藤・新井は兵力使用には否定的であった。

「われわれが前衛として飛び出したとしても、現在の軍の情勢では、はたしてついて来るかどうか問題です。もし不成功に終わったら、われわれは陛下の軍隊を犠牲にするので、竹橋事件以上の大問題です。わたくしは村中さんや磯部と違い、部下を持った軍隊の指揮官です。責任は非常に重いんです」              新井勲『日本を震撼させた四日間』より

 安藤の言葉に、「村中も磯部も釘を打たれた体である」と新井勲は書き記している。
 磯部と村中は、昭和9年11月の陸軍士官学校事件で停職となり、その停職中に配布した『粛軍に関する意見書』が問題となって、免官になった。ゆえに安藤・新井が軍服なのに対し、磯部・村中は背広姿である。
 現役将校は、民間同志に対して隔意があった。その席で、新井もこう言っている。
「それにしても村中さんや磯部さんには部下がありません。失礼ですけれど、今では一介の地方人です」
 かつては現役軍人だったにも関わらず、磯部・村中は一線を敷かれたのである。

元騎兵少尉・西田税

 軍人でなくなった同志に対し、現役軍人が隔意を抱いたのは、磯部・村中が始まりではない。
 西田税は大正14年に、予備役になった。理由は病気だったが、より国家改造運動に尽力するうえでは、軍人の立場では制限があり過ぎたのだ。
 軍務の傍ら、政治運動にのめり込んだが、それが上官の理解を得ることはなかった。注意を受けても政治的檄文を同志に配布することは止めず、むしろ同志たちの方が、軍人ではなく活動家染みてきた西田に辟易することになった。
 当時、西田は朝鮮半島羅南の騎兵第27連隊に所属していた。だが、運動の中心は東京である。西田は憲兵隊への配属を志望し、東京進出を図ったが、問題児の西田の希望を連隊長は聞かなかった。
 ちなみに、後に磯部浅一も大邱の歩兵第80連隊から経理部への転科を志望し、陸軍経理学校に入校した。これも国家改造運動の中心である東京に行くための方便だった。
 ともあれ、西田は病気から自宅療養を命じられ、予備役編入を申し出る。実際のところ、そう追い込まれたとも言えた。
 西田は上京し、満川亀太郎を通じて大川周明の行地社で世話になる。北一輝を含め、猶存社の三尊と言われていた三人は、国家改造運動の中心だったが、この頃は満川・大川と北の間で亀裂が生じていた。
 三人の決裂が決定的になると、西田は大川の下を離れて、北の側についた。このあたりから西田と青年将校の間には溝が出来ていった。
 まず、士官学校以来の同志、福永憲が西田と決裂した。軍隊を使っての直接行動を主張する西田に対し、福永が将校だけでやるべき、と反発したのだ。そこにはやはり、現役でなく、民間人が軍隊動員を主張することへの反発もあっただろう。
 士官学校生徒で獲得した同志たちも、大川の下で人を集めながら、北へ走った西田に反発していた。また西田は宮内省恐喝事件で遂に予備役すら失官となり、完全に軍人ではなくなってしまった。
 更に、天剣党事件が起こる。
 西田が海軍側の革新派将校・藤井斉と共に、「天剣党設立趣意書」を全国の同志に配布したのだ。そこには「全国の同志左の如し」と名簿が添えられていたが、その同志名簿は行地社にいたころ西田が担当した機関誌の読者名簿から抜いた名前が多かったという。しかも、その同志たちは天剣党のことなど何も知らなかった。
 あまりに目立つ行為だったため、あっさりと憲兵隊の知るところとなり、「同志」たちは取り調べを受けることになった。憲兵隊にすれば、要注意人物が要注意人物たちを教えてくれたようなもので、「同志」たちは大いに迷惑した。
「隠密であるべき連判状まがいのものを、ガリ版刷りにしてくばる馬鹿があってよいものではない」
 とは、「同志」の一人、末松太平の言葉である。
 結局西田は青年将校の信望を失い、以後は民間同志と関係を深めていくことになる。この時点で、現役将校にとって西田は、元軍人の革新派同志ではなく、民間人の革新派同志になった。

大岸・末松の同志観

 昭和6年、十月事件が起こる年に、青森歩兵第5連隊の末松太平が、陸軍戸山学校に派遣された。すると東北に残った大岸頼好が、「全国同志の会合を開きたいので、金子大佐に手配してもらうように」と末松に要請した。
 同時期、橋本欣五郎たちの動静は東北の大岸にも伝わっており、北一輝系列の革新派将校も組織強化の必要性を感じたのだ。なにより、同時期に鹿児島から菅波三郎が歩三に着任している。陸軍・海軍・民間の革新派の意思統一を図り、組織を拡充するにはベストタイミングだった。
 だが、末松が大岸の紹介で訪ねた金子大佐は転属が決まって、会場の手配どころではなかった。仕方なく末松は西田を頼ったが、既に大岸から話が通っており、会場は西田が手配することになった。
 だが末松は、腑に落ちないものがあった。

 大岸中尉も大岸中尉だと思った。はじめから西田税にいえば簡単だが、民間人に首導されると思われたくないために、金子大佐を煩わそうとしたのではなかったか。民間人を西田税と井上日召に限ったのも、その配慮からではなかったのか。              末松太平『私の昭和史』より

 これは末松の推察ではあるが、そう思うということは、やはり全国同志とは言っても、民間同志に対して、陸軍同志には隔意があったことが覗える。
 実際、いざ会合を持つと、あくまで組織固めを目的とする陸軍将校たちと、このまま直接行動の計画に結び付けるつもりだった海軍将校と民間の血盟団の考えの相違が明らかになった。決裂こそしなかったものの大岸は末松に、「こんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね……」とささやいている。

「けれどもかれは現役ではない」

 結局革新派同志は、西田との関係を継続していた。西田の家は連絡場所となり、集まって情報を得るには都合がよかった。それは、監視する警察・憲兵側も同じだったが。
 だが、やはり西田に対して、一線を敷いている。その点について、新井勲は直截に記していた。

 青年将校は何事にあれ、部外者によって動かされるのを極端に嫌った。これはわたくし自身もそうであったが、誰もそうした傾向をもっていた。西田と密接な連絡はあったが、菅波をわたくしや安藤が信用したのは、菅波がこの点をハッキリした区別を持っていたからである。西田も陸士出のかつての騎兵少尉ではある。けれどもかれは現役ではない。
                新井勲『日本を震撼させた四日間』より

 菅波も、一線を敷いている。新井は菅波が西田に対し、「あなたはそう言うけれど、わたくしら現役軍人としては、それを鵜呑みに承諾はできない」と進言を拒んだのを目撃している。
 元軍人ゆえに、そうした空気を容易に察したのか、西田は歩三前の竜土軒での会合に参加したことはなかった。
 新井は「青年将校は何事にあれ」と書いているが、青年将校全員がそうであったとも思えない。それでも、菅波を起点とする歩三革新派のスタンスは、西田ら民間人に好きにはさせないというものだった。それは相手が磯部・村中であっても変わりはしなかった。
 また、仮に青年将校の大部分がそうであったとするなら、磯部・村中も民間同志に隔意があった可能性もある。ならば二人は、民間人になったとき、自分たちが同志たちからどのように扱われるか、わかっていたのだろう。

後回しにされた二人

 結局、安藤輝三は磯部たちに同調した。新井の知らないところで準備は進められたのだ。
 当時新井は第3大隊第10中隊附で、中隊長が歩兵学校に派遣されていたことから、中隊長代理を務めていた。しかし、朝気づいた時には、中隊の初年兵が同じ隊附の鈴木金次郎少尉に率いられて、蹶起部隊に参加していた。
 民間人である磯部・村中はおそらく栗原などの手配で入手したであろう、軍服を着用して蹶起に望んだ。二人は望んで軍人を辞めたわけではない。未練は大いにあった。軍服を着たのは、これが民間人に主導されたものではなく、あくまで軍人主導であることを、少尉級の同志、兵士たちに示すためだったのだろう。管見の限りでは、二・二六事件の最中に、磯部・村中が軍人でないことを咎めた人物は見受けられない。そんなことを気にする状況でもなかった。
 事件が終わり、特別軍法会議によって磯部・村中を含む将校・民間同志計17名に死刑が宣告された。刑は昭和11年7月12日に執行されたが、磯部と村中だけは分離させられ、執行は引き延ばされた。
 同志たちと同じ日に死ねなかったことは、二人を苦しめている。処刑された15人の中には、元士官候補生であった渋川善助、牧野信顕襲撃に参加した水上源一など、民間同志2名も含まれていながら、磯部と村中は後回しにされたのだ。
 それは北一輝・西田税の裁判に関連してのものだったが、あたかも首謀者を、将校と民間人で分けたように思える。
 事実とはいえ同志からも民間人として扱われ、体制側からも民間人として扱われた元軍人二人は、約一年後、北・西田への死刑判決が出た後、共に刑を執行された。その間の憤懣は磯部の『獄中手記』に綴られ、その矛先はかつて崇敬していた天皇にすら向けられていた。
 先の15人と対照的に、4人が「天皇陛下万歳」と唱えることはなかった。

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