D51(でごいち)の話

東京思春期保健研究会 会長

東クリニック 院長  東 哲徳

 九州宮崎の田舎生まれの私にとって、小学・中学校時代に大変楽しみだったことの一つに、蒸気機関車を見ることがありました。蒸気機関車が日本全国で活躍していたのは昭和50年頃までなので、今の若い人たちには馴染みが浅いかも知れませんが、現在、全国のいくつかの公園やこうつうに展示されているので見るチャンスはあります。東京にもいくつかの公園で見ることができますが、明治・大正時代に活躍した貴重な蒸気機関車が屋外に数多く展示されている有名な「青梅鉄道公園」があります。たくさんのSLが置いてあり子どもたちや大人まで多くの人が訪ねています。子どもたちは、絵本の「きかんしゃトーマス」をイメージしたり、大きなスケールの「模型鉄道パノラマ」等で楽しんでいます。大人(特に高齢者)たちは機関車D51を見つめながら幼いころの自分を振り返ると同時に、故郷の海・山・川・親兄弟・隣近所のおじさん・おばさん・友人たちを偲んでいるようにも見えます。
D51は正式形式名称を「D51型蒸気機関車」といい車号を「D51 452」というそうで、1940(昭和15)年に製造されており戦前から戦後にかけて全国で活躍した万能機関車です。性能が安定していたため日本で最も多く製造されたそうで、当初は貨物の牽引を目的として製造されたそうですが、のちには客車にも利用された歴史を持ちます。その形は大きさ・質感が実にどっしりとしており、背丈ほどある巨大な車輪と、車輪を連結し前後する鉄の棒は子供心にほとんど異次元の存在に映りました。鉄に魂を打ち込んだ結晶がまさにD51の存在でした。田舎の子ども達にはあこがれの存在となり「大きくなったら機関車の運転士になりたいと」いう子たちが数多くいました。機関車から吐き出される石炭の煙の匂いを手招きで鼻に持っていき「いいにおい!」と満足顔でした。公害でうるさい今の子どもたちにとっては考えられない状況です。
小学校6年生時、修学旅行で鹿児島に行きました。九州山脈はずれの宮崎と鹿児島県境には多くのトンネルがあり、通過時に窓を一斉に閉めなければなりません。しかし窓が故障で半開きになったり、閉じるタイミングを間違え列車内が石炭臭の煤煙で充満し鼻の穴が真っ黒になり、お互いの顔を指さしながらケタケタ大笑いした懐かしい思い出もD51が与えてくれました。
皆さん方は小さいときに機関車D51が走っているのを見て一生懸命に手を振った思い出はありませんか?何故手を振る気持ちになるんでしょう。機関車そ
のものに対して、はたまたその客車に乗っている人たちに対するお互いのおもいやりの表現だと感じます。手を振っても反応がなさそうな超高速で疾走する新幹線に手を振る人は少ないと思います。ゆっくり走る機関車だから手を振る、ましてや、相手の顔が見えると、どこの誰とも知らなくても手を振り笑顔を交わす。相手がそれに反応して手を振ってくれると何故か嬉しい気持ちになる。何の利害関係も無いのに一生懸命にお互いに手を振りあう。その行動は相手に対する存在と、手を振っている自分に対する存在の共通認識の分け合い、無償のおもいやりの意識があると思います。人間にはそのような気持ちが本能的に生じる、実はそれこそが人の生き方を幸せにする重要な原点になる何かがあると思います。私にとってD51(でごいち)は過去のものではなく、今でも人の幸せの一部を考えさせ、思いやりの再認識をさせてくれる貴重な存在としてこれからも持続させたいものなのです。

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