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交響曲 ・オーケストラ ・組織

夏の暑い盛りの自室。パンツ一枚。頭にハチマキ。左手に缶ビール。右手に割り箸。ステレオスピーカー(昔々の大型三菱ダイアトーン)の音量をガーンと上げ、ドボルザーク交響曲第9番、言わずと知れた「新世界より」のスイッチオン。中腰になりおもむろに指揮棒(割り箸)を静かに落とすと、ベルリンフィルハーモニーの団員諸氏が小生の指揮に従順に音を流し始める。第1楽章から第3楽章までほとんど暗譜しているマエストロ東。マエストロオザワ(小澤征爾)・マエストロこばけん(小林研一郎)並みに手を振り首を振り全身を振り振り回し、その顔には自己陶酔の極致ともいうべき何かが存在している。
その熱演中に突然ドアを開けてきた娘(当時5歳)の驚愕混迷の顔は今でも懐かしい。「パパ!・・・なにしてるの?」
東京に住み、快い生き甲斐を感じる時と場所。それは、サントリーホールや東京オペラシティコンサートホール等のコンサートホールでクラシック音楽を楽しむことである。東京の恵まれたところは、世界一流の演奏家や演奏団体が、一年を通じて楽しめるところにある。小生は北島三郎の演歌からベートーベンのクラシックに至るまで、いいものはいいと、あらゆるジャンルの-音楽を愛してきた。広沢虎三の浪曲、三橋美智也の演歌、コルトレーンのジャズ、ベラフォンテのラテン、アズナブールのシャンソン、ミーナのカンツオーネ、ビートルズのロック、タリアビーニのオペラ等々。最近は加齢現象によるものか否か不明であるが、ややクラシック鑑賞に時間を費やしている。有名な二つのオーケストラのメンバーになってからは、その頻度も右肩上がりである。幸い初台の東京オペラコンサートホールは小生の家からも近く、東京の利便性を大いに享受している。
クラシック演奏は、団員個人の実力発揮による総合芸術の表現であるが、最も重要なのはその総まとめを担う指揮者である。指揮者はコンサート当日までに演奏曲に対する自分の思いそして表現を100%団員に託する。演奏曲に対する自分の考えや思いを厳しく要求し、団員と衝突する指揮者もいれば、オーケストラ団員の実力を十分認識し信頼し指揮を執るのもいる。オーケストラというのはまさに組織の縮図といえるものであり、色々な社会組織にも相通ずるところがある。
ベートーベンの交響曲第5番、いわゆる≪運命≫(ちなみにこの曲を≪運命≫と呼んでいるのは日本人だけであることをご存知か)を巨匠カラヤンとフルトヴェングラーで聴いてみると、素人ながらその違いがわかる。カラヤンの≪運命≫は文句なしの上等品であり、完成されたものである。一方、フルトヴェングラーの≪運命≫は重い。とにかく重くて疲れる。その重さはどこからくるものかと、あれこれ考えるのである。下手すると、これまでの自分の人生が何であったかという思考レベルまでに遡るのである。同じベートーベンでもこれくらいの差が出るものかと考えさせられる。指揮者によって効果は種々異なることを認識せざるをえない。極論ではあるが、単なる作曲者の譜面通りに指揮、演奏すれば何の取り柄もない、そして個性のないオーケストラになってしまう。オーケストラにも指揮者にも双方に固有の力と表現があるということだろう。
協奏曲には「カデンツア」と呼ばれるものがある。これは作曲者の意志とは関係なく、ピアニストが自由気ままにピアノを弾くことであり、指揮者はその間ピアノを聴いているのである。ピアニストとしては自分の実力発揮というところだが、ときに演奏者と指揮者のコミニケーションが不十分となり偏った表現になってしまい、演奏者の個性が十分に生かされないことがある。このことは社会組織の在り方に相通ずるところがある。リーダーシップをとる立場にあるものは、自分の意志と周囲の協調によって組織の成功が成立されるものと意識すべきである。
小生は東京産婦人科医会の渋谷区支部長という重責を担っているが、会員医師の先生方の為にもう少し尽力したいと思っている。支部会員先生方の絶大なる協力のお蔭で何とか勤めを果たしてきたことは実にありがたいことである。実力や信頼性のない人間が広く浅く、単なる自己のプレステージ維持のために、ポジションに執着し恋々としている姿を見ることは寂しいものである。どこの世界でも同じだが、世代交代としてのバトンタッチは組織の為に重要な行為である。交響曲のハーモニーの精神をこれからも意識し、他との融和を考え自らの組織に反映させたいと思う。

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渋谷区笹塚で産婦人科「東クリニック」を開業している医師です。「思いやり」をモットーとしています。