食人鬼_其の七『人と人々』

 自分が欲していた言葉は。
 相手が欲していた言葉だった。


 倉庫の中が薄暗かったので、殺さなければならないと思いました。
「近寄るなって言ってるだろ!」
 蛙の鳴き声が煩かったので、殺さなければならないと思いました。
「つ、次は脅しじゃない!」
 赤目の少女が泣いてたので、殺さなければならないと思いました。
「くそ! くそ! くそ!」
 弾丸を避けようなんて、考えてはいませんでした。そんなことを考えるまでもなく、私の瞳は銃口を捉え、それに合わせて体を逸らす。ただそれを繰り返しただけでした。囚われのアリスから離れた蛙は、空になった拳銃を私に投げつけました。私はそれを片手で掴み、蛙の顔へ投げ返しました。蛙は「グェ」と鳴き、冷たい床に背中から倒れました。
「わかった、わかったから落ち着け! な! 話せばわか、あぐぅ!」
 蛙の顔を殴りつけると、また奇妙な声で鳴きました。数発の拳は両手で防いでいた蛙ですが、次第に力が入らなくなったのか、段々とただただ私に殴られ続けるばかりになっていきました。
「待って、兎ちゃん。もうやめて」
 アリスが何故、私を止めようとするのか理解できませんでした。この蛙はその身分を弁えず、あろうことかアリスに銃口を向けたのです。殺さなければならないと思いました。私はぐったりとした蛙の首を掴み、持ち上げました。
(言葉遣いが丁寧で)
「醜い顔になってしまいましたね。それとも元からでしょうか」
(言葉遊びが大好きで)
「蛙のフットマン如きが、出しゃばり過ぎたんですよ」
(めちゃくちゃ強くて)
「骨が軋む音は、いつ聞いても心地良い」
 徐々に首を絞める両手に力を込めていく中、アリスの言葉が頭をよぎりました。これは、なんでしょう。わからない、問題ではない。兎に角今はこの蛙を、処刑することだけを考えましょう。
 私は人を愛しているから。
「ねぇ聞こえてる!? 兎ちゃん! 聞いてお願い!」
 涙を流して、可哀想に。
 アリスはこんなにも悲しんでいます。
「違うの! あたしが頼んだの! もうやめて!」
 椅子に縛られて、可哀想に。
 この蛙にどんな弱みを握られているのか。
「殺しちゃダメ! 鬼に負けちゃダメ!」
 殺すべきだと思いました。
 アリスを鬼扱いする者を。
 中身が鬼でも関係がない。
 彼女の表紙はアリスで、だからーー。
「あなたは人殺しじゃない! 人間なんだから!」 


 意識が無かったわけじゃない。でも意識的だったわけでもない。だから目の前で血を吐きながら倒れている川住かえでさんを見たとき、私の口から溢れた台詞は、何とも陳腐なものだった。
「ごめんなさい」
 放心しながらも何とか有村さんの縄を解くと、有村さんはすぐさま、かえでさんに駆け寄った。「大丈夫!? 聞こえる!?」と叫ぶ有村さんの声が、どこか遠くから聞こえているような気がした。私はただ、立ち尽くすことしかできなかった。
「へへ、問題ねぇよ。こんくらい、、、」
「喋らないで! 誰か呼ばないと!」
 私はまた、間違えたのだろうか。有村さんを助けようとして、それだけで。それなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。そうして私が途方に暮れていると、私が入ってきたドアの方から声が聞こえた。
「遅いと思って。そしたら、何よ、これ。どうしたの、かえで。かえで!」
 さかなさんは妹の傍へ駆け寄ると、有村さんを押し退けて、かえでさんを抱きかかえた。私は恐ろしくなって、数歩後退りした。何で、何が。私はただ、有村さんを助けたいと思って、、、。
「付き合ってくれてたの、食べるのを我慢する練習に。いつか兎ちゃんとみたいに、みんなともマスク無しで、目を見て、話せるようになりたくて」
 知らない。そんなの、知らない。
「すごいんだぜ。最初は数分でヤバかったのに、今じゃ数十分は持つように、なった。今日は、最高記録を、更新できそうだったんだが、な」
 かえでさんは自らが吐いた血で濡れた上体を起こし、下手な笑みを浮かべて言った。今、全員の視線が私に集まっていた。誰とも目を合わせられなかった。ただただ視線が痛かった。
「だから言ったじゃない、貴女が一番危険だって」
 さかなさんは震えた声で私に訴えた。
 私はただただ冷たい地面を見つめていた。
「いや、でも。だって。死刑囚を、食べてるって。餌の時間だって。そう言ったから、私。あんなの見たら、誰だって勘違いしま、、、」
「だから殺してもいいって言うの!?」
 倉庫に反響した怒声は、全て私の体に集まって突き刺さったような気がした。さかなさんはボロボロと泣き出し、噛んだ唇からは血が滲んでいた。
「散々有村さんのことを人殺し人殺しって嫌って! そりゃイラついて嫌味の一つでも言いたくなるわよ! 嫌う理由を何でもかんでも他人のせいにして、他人の事情をほじくり返して! それで自分だけは違うと思いたかったの? 人殺しに囲まれた自分が可哀想とか思ってたの? 人殺しは貴女じゃない! ムカつくんだよ! その善人ぶった態度がよお!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「自分は他人を許せないくせに、自分のことになると簡単に許してもらえると思ってる。勘違いして早とちりで、うっかり殺しそうになっちゃいましたごめんなさい? 舐めてんのかよテメェ!」
 さかなさんが勢いよく立ち上がろうとすると、かえでさんはその手を掴んで止めた。そして双子は一緒に、互いが互いの腰に手を添えて、ゆっくりと立ち上がった。
「ダメだよ姉さん、そう怒らないで。僕は大丈夫だから」
「でも、でも!顔がこんなになってしまって、、、!」
「姉さんだって悪いんだ。彼女に意地悪なことを言うから。それに僕ほどの名演技を見せられたら、誰だって事件だと勘違いする。そういうことがあるかと思って、こんな倉庫を選んだんだけど、それは僕が甘かったね」
「でも、でもねかえで! やっぱり僕、許せないわ。僕の家族を殺そうとした奴は、ちゃんと殺すべきだよね? お父さんなら、きっとそう言うよ」
「そうだね。でもそんなことをしたら、僕らのどちらかが処理されて、一人ぼっちになってしまうよ。それはとても嫌なことだろう?」
「嫌よ、嫌! 離れ離れなんて嫌! そうだわ、血が暴走したのはこの兎なんだから、それをチクっちゃえばいいのよ! そうすれば!」
「それは素晴らしい提案だね、姉さん。だけどそれもいけないよ。許さなきゃ。僕らは許せなかったから、ここにいるんだよ。だから許してあげよう。どんなに酷いことをされても、どんなに理不尽なことがあっても、僕らだけは許してあげよう。いいね」
「うん、わかった。わかったよ、かえで」
「帰ろう、せせらぎへ。僕らの家へ」
 双子の僕は二人だけの世界で会話を済ませると、足並みを揃えてドアの方へと歩き出した。そして私達の横を通り過ぎた後、数歩歩くと立ち止まり、振り返らずに、かえでさんは言った。
「煙草に、一杯の紅茶。それで姉さんは落ち着くだろう。お前は友達を守ろうとしただけだ。鬼にはならなかったし、悪くもない。寧ろ僕はそんなお前を、本気で撃ち殺すつもりだった。だから、気にするな」
 私はかえでさんの優しさに、返す言葉を知らなかった。小さな声で「ごめんなさい」と口から溢れるのみで、ただ二人が立ち去るのを見送っていた。有村さんは落ちていた拳銃を拾い上げると、私の背中に手を添えた。
「悪くない。誰も、悪くないよ。もっとちゃんと、早く伝えればよかった。あたしのせいで、嫌な思いさせちゃったね」
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 有村さんに背中を支えられてドアから出ると、ドアの両端にはそれぞれ誰かが立っていた。誰が立っていたのかは、見なくても声でわかった。
「だからアタクシは言ったじゃない。この倉庫に鬼はいないって」
「人ならば生かし、鬼なら殺します。今回はたまたま前者でした」
 こんなことが、何度かあった。
 こんなことは、もう嫌だった。
「、、、してください、、、」
 なのに私は何一つ、変わっていない。
 有村さんは変わろうと、していたのに。


「殺してください」


(鬼人の国のアリス 食人鬼編 其の七『人と人々』  )


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