第一杯_人事を尽くして天命を待つ_小説版『晒し屋』

 人にはそれぞれ役割がある。公務員も、アイドルも、駄菓子屋も、ラーメン屋も、クソみたいな記者だって、その仕事はあるべくして存在していて、その職に就いている人間は、本人が望んで成っていようが、そうでなかろうが、その役割を全うするしかない。他に生き方を選べたような気がしても、そんなものは気のせいだ。生まれたその瞬間、もう石は川に落とされている。その石がどう流れ、どの流木に当たり、どこへ流れ着くかなんて、石自身に選べはしないんだ。それが俺はたまたま、人殺しだっただけ。
 晒し屋、それが俺の流れ着いた先だ。


 事務所の白いカーテンを開けると、コンクリートが剥き出しの室内に朝日が差し込んできた。全身で朝の訪れを感じながら、まずは珈琲メーカーで一杯淹れる。ミルクも砂糖も俺には必要ない。マグカップを片手に三人掛けの大きなソファに一人で座り、それを口に運ぶ。俺の一連の優雅な動作が、ソファの正面に置いてある電源の入っていないテレビ画面に、ただ黒い人影として映った。
 スマートだ。実にスマートな朝のルーティーン。
 素足にスリッパを履いたまま、スマホを触るわけでもなく、テレビを見るわけでもなく、ただじっくりと珈琲の味わいを楽しむ時間が、俺は好きだった。中目黒の線路沿いにある雑居ビル、その二階にある無骨なコンクリート剥き出しのこの事務所には、無駄なものが一つもない。布団も枕も白い折り畳める簡易ベッドが一つと、その下には引き出すタイプのボックス収納がいくつか置いてあり、服など必要なものは全てそこに仕舞っている。出来るだけシンプルに、無駄なくスマートに。それが俺の仕事に対する姿勢でもあった。
 珈琲を飲み終えるとマグカップを流しに置き、次は仕事着に着替える。寝巻きとスリッパを脱ぐと、黒いシャツの袖は肘の手前で折り、その上にグレーのベストを着て、グレーのビジネスパンツにベルトを通す。言っておくがバーテンダーじゃない。ツバの浅いシンプルな黒のハットを被って、黒い靴下と革靴を履けば晒し屋の完成だ。ネクタイはせず、シャツの第一ボタンは開けておく。息苦しいのはどうも苦手だ。
 身支度が出来たらまたソファに腰掛け、スマホを手にメールのチェックをする。殺しの依頼は基本的にとある組織からしか来ない。一般からの依頼を引き受けていないわけではないが、俺の連絡先を知る人間は限られているし、何より晒し屋は忙しい。殺しても殺しても次が湧いてくる。まぁそれは渋谷を担当する同僚ーー、と言っていいのか、顔も知らない同業者がサボっているせいもあるが、その話は今はいい。
「嫌になるぜ、ったく」
 何十件も溜まったメールを眺めながらそう呟くと、シャツの胸ポケットに入れておいたココアシガレットの箱から一本取り出し、それを咥えた。ちょうどそのとき、スマホに見覚えのない番号から着信があった。

[ 通話開始 ]
『もしもし。晒し屋様でいらっしゃいますか?』
「誰だそれ。まずお前が名を名乗れ」
『目黒の青い鳥が鳴き出す頃、お待ちしています』
「なんのことかさっぱーー」
[ 通話終了 ]

 電話はそこで切られた。無視してもいいが、この番号を知っているという時点で堅気じゃない。依頼か、あるいは晒し屋を恨む何者かか、心当たりがあり過ぎてどれかわからなかった。ただまぁ、電話の意図を確かめる必要はあるだろう。仕事なんていくらやっても終わりはないし、息抜きにちょうど良いとも思えた。それで死んだら、それまでだ。
 俺は事務所を出て、外に面した狭い階段を上がった。この雑居ビルは一階がバー、二階が事務所兼俺の寝床、そして三階が相棒の家だった。合鍵で中に入ると奴はーー、弟は、事務所のものと同じ白い簡易ベッドで、布団に潜りぐーすか寝息を立てていて、見えるのは布団からはみ出した足だけだった。事務所と同じ広さのこの階には、そのベッドが中央にあるだけだ。他には白いカーテンと、弟が好きな菓子類がベッドの下に無造作に転がっている。弟曰く、これが落ち着くらしい。
「ちょっと行ってくっから。死んだら後頼むな」
 弟は起きたのか寝言なのか「ふぇ〜、あ〜い」と腑抜けた声で返事をすると、またぐーすか寝息を立て始めた。こいつは菓子を食べるか仕事のとき以外は基本的にずっと寝ている。さぞ楽しい夢でも見ているのだろう。俺の悪夢と交換して欲しいくらいだった。
 そうして俺は、弟のベッドの下に落ちていたココアシガレットの箱を拾ってズボンのポケットに仕舞い、雑居ビルを後にした。
 目黒の青い鳥、それが喫茶店ブルーバードを指していることは、簡単に想像がついていた。目黒に根付いたのはここ数年だが、相当新しく出来た店でなければ俺に知らない店はない。まぁ、別に調べれば誰でもわかることだが。目黒の青い鳥が鳴き出す頃、つまり喫茶店ブルーバードの開店時間にそこで待っているということまでは予想通りだったわけで、俺はその時間に店前には居たわけだが、そこからの記憶がない。
 目を覚ましたときには、薄暗い部屋で手足を縛られていた。



 コンクリートが剥き出しの部屋という意味では、ウチの事務所と似ていたが、この部屋には窓が無かった。恐らく地下にあるのだろう。手は柱に縄で縛り付けられ、両足も縛られ身動きが取れない。声を出すことはできるが、目の前に見える鉄の扉はどうにも分厚そうに見える。仮にここから大声を出して助けを呼んだとしても、来るのは俺を誘拐した人間だろう。
 まんまと誘き出され、まんまと捕まってしまったようだ。
 さて、誰の仕業か。考えてみたが、やはり心当たりが多過ぎて絞り切れそうになかった。最近買った恨みというと、中国マフィアの残党か?それとも紅芋組だか桜芋組だかの報復か?いや、これに関しては記憶が曖昧過ぎて、そんな名前の組は存在しないような気がする。美味そう過ぎるしな。
 まぁ、なんであれ。スマートにいこう。
「起きたかバーテン野郎」
 俺が無意味な思考を巡らせていると、目の前の鉄の扉がゆっくりと開き、ガラの悪そうな男が何人か部屋に入ってきた。下っ端らしい後ろの男が扉を閉める。やはりあの扉は相当分厚い、週間の少年誌くらいの厚さがある。まぁ、薄かろうと厚かろうと、俺にはそこまで関係が無いのだが。
「お前が晒し屋だな?よくもこの前はうちのもんを殺してくれたな。落とし前はきっちり取ってもらうぜ」
 リーダーらしきその男は、俺の黒のハットを指先でくるくると回しながらそう言った。今のところこの男達が何者なのかはわからないが、どうにもつまらないことを言う。殺ったり殺られたり、そんなもんだろこの業界。
「んで、なんで俺はまだ殺されてないのかな」
「依頼人を教えろ、殺すのはそれからだ」
 なるほど、依頼人ね。こいつらが誰か知らないが、それを知った方が危ないんだってことを、親切に教えてやりたい。いや、そんな優しい心が俺にあるわけがないか。単純に哀れんでいるんだ。俺を殺しても殺さなくても、目の前の奴らにはもう未来がない。
「なぁ、一つ訊いていいかな。電話口で言っていたあの文言というか、誘い文句というか、あれ考えたのってあんたらか?」
「これから死ぬ奴に教える義理はねぇ」
 男達はゲラゲラと下品に笑っていた。そうだよな、お前らにそんな知性は感じない。電話を掛けたのはこいつらの誰かかもしれないが、計画を立てたのは別の人間、バックに誰かいるな。
「変な考えは起こすなよ。お前のスマホはここに来るまでに捨てちまった。助けを呼べる状況じゃねぇ。仮に助けを呼べたとしても、ここがどこなのかわかんねぇだろうし、この地下にはこういう鉄の扉が何枚もある。壊して開けられる厚さじゃねぇ」
 ということはここは少なくとも目黒から離れた場所で、地下ということは確定で、ああいう扉が何枚もある特殊な建物を所有できる個人か組織がバック、ということか。めちゃくちゃ喋ってくれるなこいつ、可哀想な頭だ。
「おい、何がおかしい」
 おっとマズイ、笑っていたか。
 クールに、スマートにいこう。
「別に大したことじゃないさ、ただ。あんたら利用されてるぞ」
「負け惜しみ言ってんじゃねぇぞ。俺達はボスの仇を取るまで止まらねぇ。その為ならなんでも利用するだけだ。さぁ、早く吐け。依頼人は誰だ」
 いるんだよな、こういう人間。自分にとって大切なものが、相手にとっても同程度に大切だと思っている人間。しらねぇよ、お前らのボスなんか。誰のことを言ってんだよ。ああ、ホント。馬鹿を相手にするのは疲れる。
「わかった、わかった話すさ。依頼人はな」
 だが何より疲れるのは、仕事に意味を見出したがる人間だ。自己実現だとか、成長だとか、敵討ちだとか。殺して、殺されて、それが当たり前の仕事をしている癖に、身内が殺されたら突然敵討ちだとか抜かしやがる。
「少し子供っぽい奴でな。一日の大半を寝て過ごすんだ」
 命は皆、平等だ。平等に価値がない。ただ生まれ、ただ生き、ただ死ぬ。それが今日か、何十年後かの違いだけだ。
「その反面、仕事熱心で、随分と楽しそうにやる」
 だから俺は、ありもしない意味を見出す奴が嫌いだ。仕事だから殺せ、快楽の為に殺せ、生きる為に殺せ。まどろっこしい言い訳は面倒なだけだ。
「それと、お菓子が大好きだ」
 お互い無意味でクソッタレな人生を受け入れようぜ。
 その方がスマートだ。
「お前、さっきから何言ってーー」
 そのとき、鈍い音と共に鉄の扉が歪んだ。それは一度だけではなく、何度も、何度も。その度に鉄の扉はどんどん変形していった。目の前の男達はその異様な光景を、ただ呆然と眺めているだけだった。
「あんたらは考えた方がよかったんだ。かの有名な晒し屋が、どうしてこうも易々と捕まったりしちゃうのか。ああ、安心してくれ。別に俺が本当は強いとか、そういうことはない。あんたらはただ、勘違いをしただけだ」
 この部屋に閉じ込められた非力な俺がやるべきことは、たった二つだけだった。シャツの胸ポケット、そこに入れてあるココアシガレットの箱には発信機が取り付けてあり、特定の端末からいつでも俺の現在地がわかるようになっている。だから助けが来るまで無駄話をして、出来るだけ時間を稼ぐこと。そして。
「俺は、晒し屋じゃない」
 弟を、信じること。
 そして鉄の扉は開くのではなく、穴が空いた。ダムが決壊したかのように鉄がひん曲がり、扉の向こうから伸びた手が、更に鉄を曲げその穴を大きくしていく。そうして部屋に入ってきた男は、無邪気に笑った。
「兄貴ー!こんなところにいたんだー!ねーシガレットどこ、、、って、あれ。誰この人達、、、」
 長袖で無地の白いシャツはオーバーサイズで、黒のワイドパンツは足元の白いスニーカーに掛かる程度に長い。白と黒の上下はどちらもダボっとしているはずだが、そう見えないのは、短い髪も相まって幼く見えるその顔に、似合わない身長の高さによるものだろう。
「あーあー、、、なるほどー!」
 身長百九十センチを超える怪物はポンと手のひらを叩くと、その場にいた男達を見渡してニコリと笑った。何かを察したのだろう、さっきまで話していた男がゆっくりとこちらを振り向くと、青ざめた顔で俺を見下ろした。そんな絶望した顔するな、俺も明日はたぶん死んでる。

「今日はそいつ(の首)を、晒せばいいの?」


 事務所のある雑居ビル、その一階には『翼竜』というバーがある。そう広い店ではないが、ジャズの音色と物静かなマスターの存在が、隠れ家的な雰囲気を醸し出しており気に入っていた。仕事が終わり弟が眠ると、俺は帽子だけ事務所に置き、よくここで一人で飲んでいる。俺はカウンター席に浅く腰掛けると、胸ポケットからココアシガレットを一本取り出しそれを咥えた。本来持ち込みは禁止だが、これだけはマスターに許されている。
「禁煙、まだ続いているんですねぇ」
 そう俺に話しかけたのは、マスターではない。最近この店でよく見かけるその男は、一つ席を開けて俺の隣に座った。確か以前、清掃業をしていると言っていたが、詳しいことはよく知らない。俺より少し年下、三十歳そこそことに見える、やけに目の細い男だった。
「たまに吸いたくなるけどな。仕事終わりなんかは特に」
「吸っちゃえばいいじゃないですか」
 俺の前にはスコッチのロック、その男の前にも同じものが置かれた。いつもそうだ、こいつは俺と同じものを一杯だけ飲んで帰るんだ。
「悪魔かよ」
「天使よりはマシでしょう」
 そうして俺達はグラスを軽く持ち上げて、乾杯した。それから互いに目を合わさず、俺はカウンターの奥に並んだ酒瓶を眺めた。この店は酒の種類が豊富だ。日本酒に、様々なリキュールに、ソフトドリンク。ウイスキーに限っても豊富な銘柄が揃えてあるのに、俺はいつもこれを頼む。他が飲めないわけではないが、結局いつもこれを選んでしまう。
「今日はちょっとお疲れの様子ですね。探偵というのは、やはり大変なお仕事なのでしょう」
「まぁ。特に今日は、ちょっとトラブったりもしたからな。でも別に、この仕事が特別忙しいってわけじゃない。仕事はなんでも大変さ」
「たまには、自分だけがこんなに忙しいんだと酔っても、バチは当たらないと思いますけどねぇ」
「酔うのは酒だけで充分だ」
 このバーにはテレビがある。客の要望によって、スポーツ観戦をすることも可能らしい。そして俺はいつも、電源を切ってくれ、とマスターに頼んでいた。だから俺はこの店のテレビが付いているのを見たことがない。その真っ暗な画面にはいつも、真っ暗な店内に沈む自分が見えた。

「酔ってる奴は、スマートじゃない」



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