第二杯_備えあれば憂いなし_小説版『晒し屋』

 殺し屋という仕事には、命の危険が付きまとう。だから俺は常に最悪の事態を想定し、可能な限りの準備を怠らない。その準備の一つに欠かせないのが、休日だ。体を休める意味でも、心を休める意味でも、仕事で最高のパフォーマンスを発揮する為に休日は無くてはならないものだ。仕事なんてものは、やろうと思えばいつまでだってやってしまえる。しかし無理をすれば知らず知らずのうちにパフォーマンスが低下し、それはこの仕事では死に直結するわけだ。
 別に死を恐れているわけではない、というとカッコつけ過ぎている気もするが、朝日を浴びるたびに、今日が最後の日になることを覚悟している。ではその覚悟はどこから生まれるかというと、納得感だ。俺の頭で考えうる事態を想定し、やれるだけの準備はした。それで死ぬなら、仕方がない。そういう諦めにも近い感覚こそ、俺が考える覚悟だった。と、まあ。ごちゃごちゃ考えてみたが結局、これらもただのカッコつけた言い訳に過ぎないような気がしている。
 死なない準備をしつつ、それでも迎える最後のときを、きっと俺は待っているんだ。クソみたいな俺の人生全てを清算してくれるような、そんな罰が下る瞬間を。


 突然だが、アイドルという職業は素晴らしい。そこにいながら、そこにいない。その安心感から生まれる一方通行の恋にも近い感覚を『推し』と表現するのだと知ったのは、つい最近のことだった。
「キララはみんなの一番星☆盛り上がっていこーねー!」
 事務所のテレビ画面の向こうで手を振る彼女は、アイドルグループ「星空」のリーダー、天川キララちゃん。俺の推しだ。このライブDVDは擦り切れるほど観たはずだが、何度観ても見飽きない。寧ろ観れば観るほど新たな感動を与えてくれる。熟練されたフォーメーション、かと思えば微妙にズレた手の角度、ふと見せる幼い表情と、センターに立ったときの輝き。プロであると同時に、未熟さすらも魅力に変えてしまう彼女達、そしてキララちゃんの姿に、日々の仕事で擦り減った心が浄化されていく。俺にとってテレビとは、推しを観る為の装置だった。芸能人の不倫だとか、スキャンダルだとか、そんなくだらないもの観たくはない。


「兄貴ー!いつものちょーだい!」
 ちょうどライブDVDを観終わった頃、弟が全裸で三階から降りてきた。弟はいつも昼過ぎまで寝ているから、その時間に合わせて早い時間からライブDVDを観ていたのだ。計算は完璧、スマートだ。
「ほいよ」
 そう言いながら胸ポケットからココアシガレットの箱を取り出し、一本抜いて自分の口に咥えると、残りは箱ごと弟に渡した。
「ありがとう兄貴!これで気持ちよくなれる!」
 ココアシガレットではしゃぐな、弟よ。というツッコミは心の中にしまった。こいつの言動にいちいちツッコミを入れていたらキリがない。弟は少し、というかだいぶ頭が悪い。本来、俺は馬鹿と関わるのは苦手なのだが、俺はこいつの化け物じみた強さを知っている。晒し屋を晒し屋たらしめているのは、俺ではない、弟なのだということは、誰よりも俺が一番よくわかっている。馬鹿と未熟が許されるのは、強者の特権だ。
「一応外の階段を通るんだから、降りてくるときは服を着ろといつも言っているだろう。それ持ってさっさと着替えて来い」
「だってさ、服ってちょっと窮屈じゃない?」
 このやりとりを、これまで何度交わしただろうか。身長が百九十センチを超える大男が駄々をこねる姿にも、すっかり慣れてしまっていた。当然この後の対処法も、俺の中にはいくつもマニュアルが存在する。
「今日は休日だ、だから」
「お菓子買いに行くんだね!着替えてくる!」
 そう言うと弟は、ココアシガレットの箱を握り締めて足早に事務所を出て行った。予想通り、予定通りの休日運び、スマートだ。だが当然、予想外の事態だって起こる。弟が出て行ってすぐ事務所の扉を叩く音が聞こえ、俺は口に咥えたココアシガレットの残りを噛み砕いて飲み込んだ。


「晒し屋様、以前から依頼している件ですが」
「悪いな、今日は休日なんだ」
 黒いスーツに身を包んだその女は、名前も所属も名乗らなかったが、俺にはそのどちらも察しがついたし、なんの要件かもわかっていた。ずっとはぐらかしていたが、遂に直接催促に来たらしい。だが突然の来客にも、俺は動揺したりしない。こんなこともあろうかと、休日でも俺の身だしなみは完璧だ。流石にハットはさっき被ったがな、もちろんスマートに。
「引き受けることはできないと?」
「そうは言ってない。ただ相手が相手だ。準備には時間が掛かるという話さ」
 折角ソファの端に座ってやったのに、女は立ったまま話を続けた。仏頂面だが良い女だ。続きはバーで聞こう、とか言って、まずは酒を飲ませるのが早いだろうか。なんて下心を見透かされたのか、それとは関係がないのかは知らないが、女はわずかに眉間に皺を寄せた。
「気が引けますか、同じ店持ちを手にかけるのは。それともあなた達では荷が重いと?」
「失礼なお嬢さんだ。別に経験が無いわけじゃない。それに晒し屋は強い、うち以上の店持ちはそうそういないだろう。だが、なんかが引っかかる。この話、本当にオヤジさんは知ってるのか?」
 オヤジとは、晒し屋のような『店持ち』達の頂点。本当の名前なんて知らない。ただ誰もがオヤジと呼ぶその男に俺が会ったのは、数年前のたった一度だけだった。なんというか、普通の、凡庸な、どこにでもいるような、そんな人物だった。
「はい、もちろんです」
 嘘だな。わずかな間、わずかな表情の揺れだが、俺にはわかる。やはりこの話にオヤジは感知していない。あるいは知っていて、放置しているのか。どちらにせよ、きな臭い話だ。直接会いに来てくれてよかった。メールではわからない僅かな情報が、人間の体からはいくらでも拾える。前職の経験に感謝、なんてするわけもないが。
「まぁ、前向きに検討しておくさ。だが本当に忙しいんだ、目処が立ったらこちらから連絡する。込み入った話になるなら、お嬢さんの連絡先を聞いてもいーー」
「では、彼なら如何ですか」
 俺の話を遮って女が渡した紙の資料には、件の店持ちとは別の人物の情報が載っていた。それを受け取ると、女は事務所の出口へ歩き出し「よき返事を、お待ちしております」と言って出て行った。
「フラれちまったな」
 そう呟いてハットのツバを人差し指で傾け、暫く考え込んでいると、三階から降りてきた弟が俺の手を引っ張った。俺は女にもらった資料をソファに起き、手を引かれるままに事務所を出たが、その間に弟が言っていたことは、あまり耳には入らなかった。資料に書いてあった次に殺すべき相手の名が、頭の中をぐるぐると駆け回っていた。
 何でも屋、渋谷の氷(ひょう)。


「兄貴ー!こっちこっち!もう遅いよー!」
 線路沿いにあるいつもの駄菓子屋の前で俺に手を振る弟は、その長身が米粒くらいに見えるほど遠くに見えた。急に走り出しやがって。馬鹿のお前と違ってこっちは年中スーツという重装備なんだぞ。そんな急に走れるか!なんて熱くなったりはしない。
「先に選んでろー!」
 俺がそう叫ぶと、弟は両手で大きな丸を作ってから、駄菓子屋の中に消えた。いくらか金も持たせてあるし、多少なら仕事以外で俺から離れても問題ないだろう。俺はゆっくり考え事でもしながら、スマートに歩かせてもらうとする。さて考え事、ねぇ、、、。
 何でも屋、渋谷の氷。その名を知らないわけではないが、知っているだけという話でもある。店持ちではないと思うが、だとすれば何故突然、先方はターゲットを変えたのか。当初の目的を諦めた、と考えるのは楽観的過ぎるだろう。前の依頼内容と関係があると考えるのが自然だ。問題はそれが、どういう関係なのかということなんだが、、、。
 そこまで考えて、しかし俺の脳内の声は、すぐ側の線路を走る電車の音に掻き消された。道ゆく人の足音も、風の音も、何もかもが電車の音に掻き消されるこの時間は、音があるのに音が消えたような、そんな錯覚を覚える時間だった。音のある無音の世界で、俺がふと顔を上げると、一人の男が立っているのが見えた。待ち合わせ、というには不自然に、俺の正面に立っていたその男は、ポケットから、ゆっくりと、何かを取り出し、、、銃?
 体に衝撃が走り、俺は一歩後ずさる。もう一度似た衝撃が走り、俺はまた一歩後ずさる。三度目の衝撃に耐えられなかった俺は、その場で後ろ向きに倒れた。
 電車の音が鳴り止むと、耳が路面に近いからだろうか、人の足音がよく聞こえた。視界に広がる空は、その半分が背の高い都会の建物に侵食されていたが、その真ん中から見える灰色の雲から、雨粒が一つ、また一つと、俺の額に落ちてきた。少し顔の向きをズラすと、路面に落ちた黒のハットが見えて、それに手を伸ばし、そっと自分の胸の上に置いた。
「兄貴!!!、、、にき!!、、、き、、、!」
 あれ、おかしいな。声がどんどん遠のいていく。
 いや、違うか。遠くなってるのは、俺の方か、、、。


 人生がもし物語なら、俺は主人公じゃない。非力で、ひ弱で、他人任せで、そしてよく気絶する。そういうキャラクターを主人公とは呼ばない、ヒロインと呼ぶ。まぁ、こういうイメージはもう古いのかもしれないがな。大目に見てくれ、ヒロインとは言え俺はもう三十代も半ばのおじさんなんだ。流行りのファッションも流行りの常識も、俺はもうついていけていない。
「いやー、てっきり死んだかと思ったよ。焦った焦った」
 そんなわけでヒロインたる俺は、目が覚めたときには事務所のベッドで横になっていた。ここまで俺を連れて来たのは、この物語の本当の主人公、晒し屋を晒し屋たらしめる所以である、俺の弟だ。弟はソファの背もたれに両腕を乗せて体重をかけ、テレビを背に俺に話しかけた。ゆっくりと体をベッドから起こすと、わずかに撃たれた箇所が痛んだ。骨は、折れてないな。
「でも知らなかったよ。兄貴のシガレットの箱に、鉄板なんか仕込んでるなんて」
「箱ごとお前に渡したろ、今は持ってねぇよ」
「え、じゃあ兄貴ってもう死んでる?ぼく幽霊と話してるってこと!?」
 なんでちょっと嬉しそうなんだよ。
 お前絶対焦ってないだろ。
「残念だが、まだお呼びじゃないらしい。もうちょい弾がズレてたら、閻魔様に唾でも吐いてやったんだけどな」
 俺が年中着ているベストは、組織に作らせた防弾仕様の特注品だ。そのせいで少し重いのがネックだが、ココアシガレットの箱に鉄板を仕込むよりはくらかマシだろう。スマートだ。
「兄貴ってホント弱いよね」
「サラッと辛辣なことを言うんじゃねぇ」
 そして徐にお菓子を食べ始めるな。
 ソファにボロボロ落としまくってんじゃねぇか。
「けどいつも冷静っていうか、落ち着いてるっていうか、ヘラヘラしてるっていうか」
「最後のはお前のことだろ」
 そのお菓子、まさか俺が撃たれた後に買ったわけじゃないよな?俺が撃たれる前に買ってたやつだよな?そうだよな?流石にそうだよな?
「この前だって、捕まって、死にかけて。なのに笑ってたし」
「弟を信頼してんのさ、お前は必ず期待に応えてくれる」
「でも兄貴も戦えた方が、危険は減ると思うんだけどな」
「俺はお前と違って脳筋じゃねぇ、頭脳派なんだよ」
 弟は持っていたお菓子を一気に口の中に流し込むと、黙って俺を見つめていた。最近こういう時間がたまにある。馬鹿のくせに何かを考えているらしい。何を考えているかは知らないが、どうせ考えても無駄なことだろう。
「兄貴は、後悔したりしない?」
「何をだよ」
「その、仕事とか」
「別に。まぁ、前よりはマシか」
「ぼくを、その、、、」
「もういいか、疲れてるんだ」
 そう言って俺は話を強引に中断し、弟に背を向けてベッドに寝転んだ。少し経つと事務所のドアが閉まる音が聞こえ、弟が出て行ったことがわかった。俺はベッドから立ち上がると、お菓子の粉やら欠片やらで汚れたソファを掃除しながら、軽く溜め息を吐いた。それからシャツの胸ポケットに手を伸ばして、ココアシガレットを切らしていたことに気が付き、今度は深い溜め息を吐いた。
 ソファの掃除を終え、ベッドの下のボックス収納の一つを引き出すと、俺の黒いハットが逆さまに仕舞われており、それを手に取ると、帽子の中にココアシガレットが一箱入っていた。一本咥え、箱はシャツの胸ポケットに仕舞う。舌先に人工的な甘ったるさがじんわりと広がった。
「頼んでないだろ、そんなこと」


「今日はだいぶお疲れみたいですね」
「休みのはずだったんだがな」
「髭、伸びてます」
「あー、、、忘れてた」
 事務所のある雑居ビル、その一階にあるバー『翼竜』で、俺はいつもの目が細い男と飲んでいた。約束していたわけじゃないが、お互い同じような時間帯に来て、お互い同じスコッチのロックを頼み、一席空けてカウンター席に座っている。まだ一杯目だが、今日は少し酔いが回るのが早い。
「私も休みだったんですよ。だから子供達を連れて家族サービスとやらをしていたんですが、これがまぁ疲れる疲れる。仕事の方がよっぽどマシです」
「初耳だな、あんたに子供がいたなんて」
「言ってませんでしたっけ?息子と娘がいるんです。これがまた二人ともお転婆というか、なんというか。全然言うこと聞いてくれないんですよ。どうしたらいいんでしょう?」
「そういうのは奥さんに相談したらどうだ」
「妻はもう死んじゃったので、相談しようがありません」
「あんたこの前、妻はロサンゼルスに出張してるとか言ってなかったか」
「あれ?そうでしたっけ?まぁ似たようなものということで」
「適当過ぎて清々しいな、ったく」
「まぁでもあれですね。若い世代の奔放さを目の当たりにすると、歳を取ったなと感じます。舞台のスポットライトはもう、自分には当たっていない。それでいいような気もするし、それでいいのか不安にもなる」
「贅沢な悩みだ。スポットライトが自分に向いたことなんて、一度もない。俺はずっと撮る側だった。今もそうだ。実務はほとんど任せてあって、俺が現場に行くことはあまり無い。誰かから依頼され、それを誰かに伝えているだけ」
「探偵、でしたもんね。仕事を任せられる相手がいるというのは、それはそれで贅沢に思えますけれどね。任せたいことは山ほどあれど、まだまだそういうわけにもいかず。汗を流す毎日です」
「難儀だな」
「ええ全く」
 話が落ち着き、胸ポケットのココアシガレットに手を伸ばした、そのときだった。普段は消えているバーのテレビの電源が入り、薄暗い店内にやかましい光が広がった。俺がいるときはテレビを点けないでくれ、そうマスターに頼んでいたこともあり、咄嗟にマスターへ視線を向けると、マスターはテレビのリモコンを持ったまま顔をテレビへ向けた。見ろ、ということだろうか。
「あらぁ、おめでたいですねぇ」
 目の細い男は、その目を更に細めて(見えてるのかそれ?)テレビ画面を見ながら言った。流れているのはどうやら報道番組のようで『デキ婚』の二文字が見えた。スマートじゃない字面だ。
「おい消してくれ。どうでもいーー」

『アイドルグループ「星空」のリーダー、天川キララさんが電撃結婚を発表しました。お相手は昨年の舞台で共演した若手俳優の影山京介さんで、お腹には既に新たな命が宿っているそうです。各界から既に祝福のメッセージが寄せられつつも、「無責任では」との声も上がっており、、、』


 普段は静かな翼竜が、この晩だけは腹の底から泣き叫んだ。



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