食人鬼_其の四『師の土産』

 待っていたのかもしれない。
 憧れが迎えに来てくれるのを。


「、、、きなさい、、、」
 んん、、、。なにぃもう。
「起きなさい」
 朝ご飯の時間かにゃ?
「授業の時間です」
 そこでハッと我に返り、机に突っ伏していた顔を上げた。資料室の長机には散乱した沢山の本と、私の汚ねぇヨダレが広がっていた。恐る恐る振り返ってみると、太った女性が私を見下ろしていた。というか先生だった。
「わ、あの、すみません今行きます!」
 いつの間に朝になっていたんだよお! というかあの女、起こしてくれたらいいじゃないか! っていうか汚い! ヨダレ汚い! などと脳内がお祭り騒ぎになりながら机の上を片付けていると、先生は私に尋ねた。
「そんなに知りたいですか」
 どういう意図の質問かはわからなかったけれど、それが恐らくヨダレではなく広げていた資料を見ての発言であることは、想像がついた。だから、手の甲で口についたヨダレを拭いて、答えた。
「私の、この島のことですから」


 昨日は深夜に学校を訪れ、図書室が実は鬼人に関する資料室であったことを知り、夜通しその資料を読み漁っていた。壁一面に埋め尽くされた本は一つとして表紙通りの小説は置いておらず、全てカモフラージュされた、ほとんど事件資料だった。どうしてそんなカモフラージュがされていたのか、なぜ学校にそんな資料があるのかは、わからないが。
「朝ご飯の時間かにゃ? だって。くぷぷぷ」
「鬼というか悪魔です。貴女は悪魔です」
 この女、廊下から聞いてやがったな。というかあれ声に出てたんだ。はっず。何それはっず。そんで先生もツッコんでよ、触れてもらえないのが一番辛いよ。
「ではいつも通りプリントに従って進めてください」
 先生は教卓に立ちいつも通りの台詞を言って、教室を後にしようとした。ただこの日は教室を出る前に、いつもよりもう一言だけ多く私達に伝えた。
「必要なものがあれば、言いなさい」
 バタンと教室のドアが閉まり、私と有村さんは目を合わせた。いや、有村さんは前髪のせいでその瞳は見えなかったけれど、とにかく顔を見合わせた。
「なんのこと?」
 と、前髪を片手でかきあげて私に尋ねる有村さん。
「たぶん、私が調べてた資料の件だと思います」
 と、とりあえず答えてみた私。
「ということは?」
「ということはですね」
 だから、私は彼女を許してないんだって。そうやって何度も自分に言い聞かせた。私の友達を食べた相手と、仲良く友達ごっこをするなんておかしいんだ。おかしいけど、だから。そんなに嬉しそうな顔しないでよ。
「お泊まり会だぁー!!!」


 こうして、断じてお泊まり会などという浮ついたものではなく、資料研究の為の合宿が始まった。初日は数冊寮に持ち帰ったが、次の日からは先生に頼んでいた物資が早速届いていたので、資料室に寝袋を敷いて泊まり込みで片っ端から資料を読み漁った。
「世の中にはこんなに悪い人がいるなんて、ちょっとびっくりだよね。どの本を開いても悪い人ばっかり。あたしなんて全然大したことないじゃんって思う。だから、ここは好き」
 時折、有村さんは資料室に顔を出してはちょっかいを出してきた。彼女はいつも別の場所で眠っているらしく、一緒に寝ることはなかったし、もしここで寝るつもりなら私が別の場所で寝ていただろう。
「それにね。この本の中には、あたしの親の話が書いてあるの。他人から見たら事件記録だろうけれど、あたしにとっては、会ったことのない両親と会える唯一の場所だから。唯一、あたしと同じだった人だから」
 有村さんがいつも持ち歩いている『不思議の国のアリス』の中身は、彼女の親、食人鬼に関する資料だった。本来であれば吐き気を催すようなその内容も、この資料室の中では単なる一冊の本に過ぎない。
「ここには沢山の鬼の資料があるけど、あたしが一番好きな鬼の物語は、この資料室には無いんだ。兎ちゃんはさ、ヘンリーって知ってる?」
「ヘンリーって。ああ、殺人鬼のですか?」
 殺人鬼ヘンリー。
 この島どころか、この国どころか、世界でその名を知らない者はいない。と、思う。つまりはそれくらい有名な殺人鬼だ。私だって名前くらいは知っている。名前を知っているだけだけれど。
「誰もがその名を知っているのに、誰もその正体を知らない。どんな生い立ちだったのか、なに人だったのか、生きているのか死んでいるのか。ヘンリーと名乗る犯罪者もいたし、ヘンリーと会ったっていう女刑事の話だってある。ヘンリーが自ら書いたっていう手記まであるんだよ、眉唾物だけどね。中には、ヘンリーは未解決事件の責任を全部押し付ける為にFBIが作り出した、存在しない人間だっていう説もある」
 赤い瞳を輝かせながら有村さんは語っていた。ああ、この話長くなるなと内心思っていたが、実際は想像の百倍くらい長かったし、この合宿期間中に何度も同じ話を聞かされるハメになったのだった。
「でもね、あたしはいると思うんだ。殺人鬼ヘンリー。人を殺す鬼。確かな情報は何も無いけど、多くのエピソードで共通していることは、紳士的ってこと。言葉遣いが丁寧で、言葉遊びが大好きで、めちゃくちゃ強くて、人を深く愛していて、だから殺したくなる。今でもどこかで、誰かを殺してるんだろうな。自由に、赴くままに。こんな狭い島なんかじゃなくてさ」
「そんなに殺したいんですか、人を」
 つい語気が強くなってしまったのを、有村さんも感じたのだろう。暫くの間、私達の間に静かな時間が流れてから、有村さんは呟いた。
「雀は猛禽類じゃないよ。あたしの羽じゃ、島も出られない」


 資料室に泊まり込んで、何日経っただろうか。最初はよく覗きに来ていた有村さんも、嫌そうにする私を見て段々と来なくなっていた。時折窓の外に、港町の方へ向かう彼女の姿を見かけた。船で物資と共に運ばれてきた人を食べに行っているのだろう、そう思うと吐き気がした。受け入れられないものは、やはり受け入れられない。彼女は人殺しだ。
 それでも私がその人殺し、鬼人の資料を読み漁っていたのには、幾つかの理由があった。そもそも鬼人とは何なのか、どんな存在であるのか、何も知らなかったラビちゃんのことも知りたかった。書かれていたのは、ラビちゃん自身ではなくその両親のことだったけれど。そう、資料には。私達の親世代か、もっと古い事件しか載っていなかった。私が島にやってきたとき、ラビちゃんが『誰のせいで島に来たのか』と尋ねた理由は、つまりはこういうことなのだろう。誰のせい、親のせい、親は一体誰なのか。ラビちゃんは私にそう訊いていたのだ。思い返してみれば、そのような趣旨の質問を有村さんにもされたことがある気がした。
 そして、本棚にある全ての資料にある程度目を通し終わったとき、私が最も知りたかったことを、知ることができた。いや、正確には、わからないことが、わかった、と言うべきかもしれない。まぁ兎にも角にも目的を達成した私は、安心感からか机に突っ伏したまま寝落ちしてしまった。
 目を覚ましたときは、また寝坊した! と焦って勢いよく立ち上がったけれど、すぐに休日だったことを思い出した。すると、はらりと背から何かが落ちた。振り返ってそれを拾うと、毛布だった。私はそれを畳んで抱えると、資料室を後にした。
 軋む木の床を踏み締めて、廊下を歩く。下駄箱には有村さんの上履きが置いてあった。どうやら彼女は今日も外出中らしい。そのまま玄関を通り過ぎ、私は入ったことのない部屋のドアを開けた。空席だらけの伽藍堂の職員室の真ん中で、一人パソコンに向かう先生は、座ったまま、私に視線を向けることなく事務的に言った。
「どうしましたか」
「お礼を言いに。ありがとうございました。先生のおかげでこの数日間、とても読書が捗りました。小説読むのって苦手だったんですけれど、克服できたかもしれないです」
 私は寝袋や食料の手配をしてくれたことへの感謝を伝えながら、近くの机に抱えてきた毛布を置いた。
「素晴らしい本ばかりだったでしょう」
「ええ、本当に。涙が出ました」
 それから私達が本来まだ知るべきではない情報を『偽り』『誤魔化し』伝えてくれたことへの感謝を伝えた。私の人生の中で、先生と呼ばれる人物に対して、心の底から感謝を伝えたのは、これが初めてだったかもしれない。深く頭を下げて、それから職員室を後にしようとした私の背中に、先生は声を掛けた。
「アリスを、お願いね」
 だからこれは、先生からの頼まれごとなのだ。私は彼女を許していないし、許すこともないだろう。けれど、恩には報いなければならない。特に、毛布を掛けてくれた恩には。


「兎、ですから」


(鬼人の国のアリス 食人鬼編 其の四『師の土産』 )


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?