食人鬼_其の八『猟師の勘』

 殺されてしまうと直感した。
 それを咄嗟に「不味そう」と言った。


 人間は何も食べなくても、数週間は生きられる。水分だって取らなくても数日は生きられるそうだ。と、何処かの誰かが言っていた気がする。情報源、最近はソースと呼ぶのが流行りだろうか、それが実にあやふやなザックリとした記憶ではあるけれども。つまり、私がこのまま飲まず食わずで耐えることが出来れば、一週間後にはきっとあの世でラビちゃんに会えるというわけだ。それが天国でも、地獄でも、異世界転生でも、なんだって構わない。
 あの倉庫を出て、寮に帰って布団の中にこもってから、どれだけの時間が経っただろうか。少なくともまだ現世に留まっている様子だから、一週間は経っていないのだろう。というかきっと一日すら経っていない。布団に潜ってすぐ、玄関の戸を叩く音が聞こえたけれど、誰が叩いたかもわかっていたけれど、無視する他なかった。人殺しが安易に他人と関わってはいけない。
 それにしても、こうして布団の中に閉じこもり、体が毛布に溶けてしまったような感覚がとても懐かしい。喜日島に来る前は、ずっとこんな感じだった。ずっと死にたかった。ずっと消えたかった。誰とも関わりたくなかった。その感覚を私は、つい忘れてしまっていた。奇妙な話だけれど、きっと楽しかったのだ。このイカれた島が、私自身がイカれていることを、忘れさせてくれていた。有村さんがあの資料室を気に入っていた心情が、今なら痛いほど理解できた。いや、これは失礼な考えだな。痛かったのは、かえでさんなのに。
 まぁだから結局のところ、人間なんてそう簡単に変われはしないということだ。いや、これも失礼な考えだ。私は人間じゃなくて鬼なんだって、人殺しなんだって。幸いにも、本当に人を殺したことはない。でもそれは今回のように運が良かっただけだ。引き金がなんなのか、私にもわからない。ただ唐突に、心も体も、私から離れる感覚を覚えることがあった。意識があるのに意識がない、記憶があるのに他人事。そういう感覚から目覚めた後、待っているのはいつだって血と後悔の大海原だった。だからきっと、両親は私を捨てたのだろう。親の顔は知らない。物心ついた頃には、既に児童養護施設で暮らしていた。
 はぁ、やめだやめだ。不毛なことを考えるのは。布団の中にこもっていると、やはりマイナスなことばかり考えてしまう。何度も考えたことを蒸し返して、決まり切った結論のちゃぶ台をひっくり返して、思考はやがて死への願望へ帰結していく。わかってる、いつものことだ。いつものことなんだけど、でも今回は、だから。ちょっと、キツい。
 頬に冷たい何かが当たり、被っていた布団を手の甲で押して空間を作って、その原因を探した。布団が湿っているのを見て、自分が泣いている事実に辟易した。この涙は罪の意識とか、死にたくて辛くて流れた涙ではないことを、私は知っているからだ。布団から芋虫のように這い出ると、押し入れの奥の奥に仕舞ったダンボールの中から最後のカップラーメンを取り出し、電気ケトルで湯を沸かした。死にたいなんてカッコつけたことを考えながら、空腹に耐えられない自分が情けなくて流れた涙だった。立ち昇る湯気の向こうに見えた窓の外は、どっぷりと夜に沈んでいた。熱々のスープで軽く舌を火傷しつつ、喉に流した単純な旨みは、肌寒さに震えていた私の体をじんわりと温めた。麺を啜り、スープを流し込む。また麺を啜り、スープを流し込む。美味しくて、美味しくて、こんなにも生きたい自分が情けなくて、麺を喉に詰まらせながら嗚咽を漏らした。


 歩き慣れたはずの一本道は、いつもと違う顔をしていた。ここ一ヶ月の私の通学路が、遥か昔に歩いた道に感じたのは、きっと深夜だからというだけではなかった。この島に来るずっと前も、夜中に児童養護施設を抜け出して、よく一人で散歩したものだった。バレてめちゃくちゃ怒られたけど。ほとんど誰とも出会さない世界で一人だけみたいな時間が好きだった。一人なら、誰も傷つけなくて済んだから。誰かを傷つけて、私が傷つくことが無かったから。
 暫く舗装された夜道を歩くと、校門が見えてきた。そこで私の足は勝手に止まり、小刻みに震え始めた。学校には有村さんが住んでいる。もしかしたら、彼女はまだ起きているかもしれない。会えるわけがなかった。私の足は勝手に方向転換して、学校を横目に木々の間を歩き始めた。道なき道を、足に木を引っ掛けて擦り傷を付けながら、進んでいく。向かう先なんて何処でもよかった。ただ一人で歩いていたかった。叶うならばこのままずっと、一人で森の中を彷徨っていたかった。
 木々を掻き分け暫く歩いていると、小石か何かに足を滑らせて、私は暗がりの中、尻餅をついた状態で斜面を滑り落ちていった。幸い落ちた先はそこまで高低差はなく、斜面も緩やかだったので、太腿に擦り傷が増えた程度だった。寧ろ自分の体が傷つくことに、安堵すら覚える自分がいた。私はもっと傷つくべきだった。これまで傷つけてきた人達の分、もっと、もっと。
 森の中、ひたすら坂を登っていく。もう自分がどの辺りを歩いているのかなんて、見当もつかなかった。案外まだ学校からそれほど離れていないのかもしれないし、逆に途方もなく離れてしまったかもしれない。後者だったらいいなと思った。そうしたら、やっと私は死ねるかもしれない。山で遭難したとしても、この島ならきっと大事にはならない。救助隊なんて来ずにただ一匹の鬼の処理をする手間が省けただけだろうから、誰に迷惑を掛けることもない。だから私はとにかく歩いた。帰りの体力を無くす為に。今度こそちゃんと死ぬ為に。
「綺麗、、、」
 思わず声が漏れたのは、目の前に海が広がっていたからだった。薄暗くてその水面は黒く塗り潰されているだけだったが、見たことのない景色まで辿り着いたことが嬉しかった。私一人だけの景色だ、と。思っていたのに、その酒焼けみたいに枯れた声は、そんな私の感傷に横槍を入れてきた。
「いい加減戻ってくれませんか。疲れました」
「嫌なら勝手に戻ればいいじゃないですか」
 坂を登り私の前に現れた彼女は、帽子のツバを深く沈めて顔を隠すと、私の黒い海への視界を遮る場所で立ち止まった。上下長袖の青いゴワゴワとした服を着ていて、羽織っているオレンジ色のジャケットが暗がりの中で煩く光っていた。
「やっぱり私を尾けていたんですね。ラビちゃんのときも、倉庫のことだって。あなたは最初から私を監視していたんです。殺す機会を伺って、ずっと」
「人ならば生かし、鬼なら殺します。それだけです」
 なら早く殺してくれればよかったのに。
「ちょうど良かった。殺してください、今すぐに。ほら、ラビちゃんのときに言ってたじゃないですか。爪を立てたときに、人としての権利を失ったって。鬼は処理するだけだって。私、傷つけたじゃないですか。かえでさんを。暴走しちゃってるじゃないですか。殺してくださいよ」
「三吉良美は爪を立てた段階で、鬼だと判断しました。ですが貴女のことはまだ、鬼だと判断していません。でなければ言われずとも殺しています」
「不公平はダメですよ。公平に、ちゃんと、私も殺さなきゃ。兎を狩るなんて猟師にとったら朝飯前でしょう。ほら、ちょうどまだ朝日も昇っていませんし、文字通り朝飯前に終わりますよ」
 どう考えたって私は鬼だろう。
「そんなに殺して欲しいのですか?」
「当たり前のことを訊かないでくださいよ」
「自殺では駄目なのですか」
「出来るなら言われずともやってますけど」
「なら生きればいいじゃないですか」
「それも出来ないから頼んでるんです」
「子供みたいなことを言うんですね」
「子供ですから。青春真っ只中ですから」
 すると猟師さんは私に背を向け、斜面に座り込んだ。彼女に阻まれて欠けていた黒い海が、再び視界いっぱいに広がった。私もその場に腰を下ろした。擦りむいた太腿がじわりと痛んだ。
「私は貴女達、鬼人が嫌いです。自分勝手で、我儘で、欲望のコントロールすら出来ない。まるで子供です。自分の思い通りにならないと、他人のせいにして暴れ狂う。島のせい、大人のせい、親のせい。他人を傷つける癖に、他人に傷つけられることは許容できない」
 猟師さんは私に背を向けたまま話していた。
 鬼の私に、背を向けたまま。
「だから許容してるじゃないですか、傷つけられること。傷つけてくださいって、殺してくださいって言ってるじゃないですか」
「それで貴女は傷つきません。傷つくのは私の方です。人殺しの罪から逃れ、あろうことかそれを私になすりつけようとしているんですよ、貴女は。死ぬなら勝手に死んでください。私は貴女の親ではありません」
「さっきから他人事のように言ってますけど、猟師さんだってこの島の住人じゃないですか。鬼じゃないですか。大人だからって、立派そうなこと言わなくていいんですよ。同じじゃないですか、同じ化け物じゃないですか」
「ええ、そうですね。私も貴女も、同じ化け物です。そして血に抗おうと戦っていた有村雀も、川住の双子もまた、同じ化け物です。けれど違うのは、貴女は逃げた」
「いいじゃないですか、逃げたって」
「極端に友達を信仰したり、そうかと思えば極端に周囲の全てを敵だと決めつけたり。いつも極端な思考に逃げて、現実と戦おうとしない」
「逃げるのがそんなに悪いことですか」
「逃げても構いませんが、覚悟はして欲しいものです。逃げている最中、誰かが貴女の代わりに戦っているということを。貴女の代わりに傷つく誰かを見捨てる覚悟を持つ。逃げるとは、ときに戦うよりも覚悟のいる決断です」
「そんなの、私に求めないでください」
 あんなに美しい海から顔を背け、私は擦りむいた太腿に顔を埋めた。やっと一人になれたと思ったのに、どうして説教なんてされなきゃいけないんだ。逃げる覚悟なんてあるのなら、私だって。戦いたかった。でももう、嫌なんだ。傷つけるのも、傷つくのも、沢山なんだよ。
「同じ時間の海ばかりを眺めていると、ずっと黒いように感じます。けれど海は、青いんです。その青さもまた、時間によって、日によって、異なります」
 そのとき真っ暗だった視界に光が差し込んできた。太腿の間から差し込んだその輝きは、私の座る地面を照らし、私の冷えた肌を温めた。
「私は、この時間が好きです」
 顔を上げると、真っ黒だった海をオレンジ色の光が照らしていた。どこまでも続く水平線の向こうには、朝日がゆっくりと、でも確かにその輝きで、今日という新しい一日の訪れを知らせていた。
「私が貴女を殺さなかったのは、私の合理的な判断の結果です。三吉良美の衝動は裂くことであり、彼女はそれを達成してしまっていた。ですが貴女は川住かえでを殺すことなく、有村雀の声に止まることができた」
 立ち上がった猟師さんの足元から影が伸び、私の足元まで届いた。彼女がその背に猟銃を背負っていないことに、私はこのとき気がついた。
「もちろん、貴女の衝動が別のところにあり、それが達成されていた可能性がゼロではありません。私の判断が間違っていて、本当は殺すべきだったのかもしれません。もしこれから貴女が誰かを傷つけるのならば、貴女が誰かを殺すのならば、私の判断が誤っていたと言わざるを得ません。それを覚悟した上で」
 私は立ち上がり、全身で朝日を浴びた。暖かくて、心地良くて、擦りむいた傷がちょっと痛んで。それから頬を流れた涙の雫も含めて全てが、情けないほどに生を感じさせた。
「私は貴女を、白月兎を信じます。今のところは」
 振り返った彼女の顔は、帽子のツバと逆光で、やっぱりよく見えなかった。まるで自分だけ別の立ち位置にいるかのように語るあなたは、一体何者なんですか。
「どうして、私なんかを」
 あなたは一体、誰ですか。


「最後はやはり、猟師の勘です」


(鬼人の国のアリス 食人鬼編 其の八『猟師の勘』 )


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