【第3頁】過ちを赦す【赦し屋】

 辛気臭い面をした男だった。自衛隊の過酷な訓練にも顔色一つ変えず、笑いもせず、泣きもせず、聖書ばかり読んでいた。この国には信仰の自由がある。誰が何を信じていようと構わないし、奴の上官だった俺もそれにとやかく言うつもりは無かった。ただ、興味があった。
 信仰を失うとしたら、それはどんなときなのだろう、と。
 奴に、相楽(さがら)にレンジャー課程を勧めたのは俺だった。それに相応しい能力があると見込んだ、というのも嘘ではない。だが同時に、並みの自衛隊員では根を上げる過酷な訓練に、奴の信仰が耐えられるのか試したかったというのもまた、誤魔化せない本心だった。
 結果、相楽は見事にレンジャー過程を修了した。飲まず食わずで行われる過酷な行軍も、奴の表情を歪めるには至らなかった。自衛官達の間で期待の星だと相楽のことが話題に上がるたび、俺は誇らしい気持ちになった。だが同時に落胆している自分もいた。この程度では奴の信仰を揺るがすことはできない。いや寧ろ、自らの精神と肉体を鍛えることは、信仰を強めることに繋がるではないか、そう思えた。だから次は趣向を変えることにした。その為の舞台ならいくらでもあった。
 自衛隊とは、軍隊なのだから。


 この国は戦争なんかしていないと、そう誰もが信じている。仮に疑っていたとしても、証拠が無ければ陰謀論の範疇を出ない。そういうハッピーでラッキーなファンタジーを国民に信じさせることも、自衛隊の仕事だった。秘密裏な海外派兵も、日常的な国境沿いの海戦も、国内の厄介な隠蔽工作も、記録に残ることはない。この国は戦争をしないと決めた日から、戦争という存在そのものを消す為の戦争を続けている。だから俺はただ、そういう当たり前の、ごく普通の仕事を、相楽に与えただけだった。少しだけ多く、頻繁に。
 最初はその鉄仮面を崩さなかった相楽だが、徐々に、着実に、その顔色は悪くなっていった。時折何か言いたそうに俺を見ていたが、眉間に皺を寄せてすぐに視線を聖書に戻した。俺は笑いそうになるのを必死に堪えた。いつも辛気臭い顔をして、自分だけは聖人気取りだった相楽の表情が、歪み始めている。人を殺した気分はどうだ、闇に手を貸す気分はどうだ、お前の神様は今のお前を許すのか?そう訊きたかったが、グッと我慢した。俺は奴の口から、弱音を聞きたかったのだ。
 そして遂に、俺が望んでいた日が訪れた。


「耳から、離れないんです」
 相楽は会議室に俺を呼び出すと、思い詰めた表情で開口一番そう言った。奴の片手には分厚い聖書が握られていて、表紙は所々剥がれていた。
「『赦して』って、聞こえて。ずっと、耳元で」
 相楽はもう壊れる寸前だった。きっと前回の任務で命乞いでも聞いてしまったのだろう。無理もない。本来それほど精神に負荷の掛かる任務は、高頻度ではやらされない。このように隊員の精神に関わるからだ。だから通常は高い負荷の掛かる任務は大きく間隔を空けたり、そもそも適性の無い人間は任務から弾かれたりする。
「自分は、『彼ら』のようにはなれません」
 だが、例外もいる。どんな任務にも精神を蝕まれることが無く、寧ろ残虐な戦場に好んで参加する者達。『彼ら』に特別な部隊名などは無く、『彼ら』がどの隊員なのかを知る者どころか、『彼ら』の存在を認識している者すらほとんどいない。ただ『彼ら』同士は頻繁に戦場で顔を合わせることから、それとなく互いを認識している。『彼ら』は知り過ぎているが故に、互いが互いを監視している。一度『彼ら』に『彼ら』と認識されれば、もう戦場から抜け出すことは許されない。
「相楽。もうお前は、こっち側なんだよ」
 それから程なくして、相楽は脱柵した。

 俺は『彼ら』の一人として、相楽の潜伏先に向かった。情報を流したのは奴の両親で、潜伏先は相楽の父が神父を務める教会だった。『彼ら』と共に教会内に足を踏み入れると、年老いた神父とシスターが横に長い椅子に並んで座り、手を組んで祈りを捧げていた。相楽の両親だ。事前に用意された顔写真のデータとも一致した。
「おい、息子はどこだ。いるんだろう」
 二人は話しかけても何も答えず、ただぶつぶつと何か唱えていた。俺は神父の襟を掴んで引き寄せ「おい!」と怒鳴ったが、やはり神父は何も答えなかった。ただ手を合わせ、祈り、その手が、小刻みに震えていた。冷や汗が俺の背中にじわりと滲んだ。
「退避だ、たいーー」
 言うのが早かったか、その直後だったか、爆音と共に身体が浮いたのを最後に、俺は意識を失った。次に意識を取り戻したとき、教会は跡形も無く崩れ去り、相楽の両親も他の隊員達も、瓦礫の下敷きになっていた。口から血を吐き出す者や、下半身が無くなり内臓が飛び出している者など、そこはまさに戦場だった。
 そしてその戦場を一人、無表情で見つめる男がいた。
「なんでだ。なんでお前、両親まで、、、」
 つい数日前まで苦悩に歪んでいた奴は、もうどこにもいなかった。相楽は初めて会ったときのような、いいやそれ以上に辛気臭そうな鉄仮面を顔に貼り付けていた。その手に聖書を持って。
「動かない方がいいですよ」
「ああ、何言ってーー」
 自分の左腕が無くなっていることに、このとき初めて気がついた。断面からは血がドバドバと流れ出て、手で押さえてもそれは止まらなかった。興奮していたせいか、痛みはあまり感じなかった。ただただ頭の中を、混乱と恐怖が支配していた。
「あの人達は最後まで、神に祈っていましたから。だからきっと、あれでいいんです」
 俺は相楽という男を、見誤っていたのだと悟った。聖書に縋り、神に縋り、それらに見放されれば簡単に壊れてしまうような、そんな人間だと思っていた。だがこのとき目の前にいた怪物は、簡単に教会と、両親と、仲間と。こいつの全てだったはずのもの全てを、否定した。
「なんでもよかった。それが恋でも、愛でも、金でも、夢でも、信じさせてくれるなら、俺はなんでもよかったんです。それがたまたま生まれたときから、神様だった。でも、ダメみたいです。ちょっと試してみただけで、簡単に神は俺を見放した」
 試していたのは俺ではなく、相楽自身だとでも言うのか。生まれてからずっと自分を支えてきたはずの信仰心を、自分で試したとでも言いたいのか。だめだ、意識が段々遠くなっていく。
「本当に信じていたし、本当に残念なんです。でも仕方がない。神も国も、赦しを乞う価値は無かった」
 相楽は持っていた聖書を瓦礫の山に投げ捨てると、父親の死体を踏みつけ、その首から十字架のペンダントを乱暴に引きちぎった。形見のつもりなのだろうか、自分で殺したくせに。もう俺には、こいつがわからない。
「耳から離れないんですよ、ずっと」
 意識が無くなる寸前に、俺が最後に聞いたのは、怪物の産声だったのかもしれない。


「俺は、赦したかった」


(『赦し屋』3)



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