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《MEMO》あゝ勘違い予科練②

前回の➀より関連する内容です。

🌸意外と七つボタンの存在期間も短い

・終戦前の3年間だけ

軍国少年みんなの憧れだった「七つボタン」。

♪ななーつボータンはーさくらー🌸にいかーりー⚓♪
と「若鷲の歌」にも歌われ、
予科練と言えばコレと感じている方も多いのではないかと
思います。

でも、この制服が使われていた期間は
予科練15年の歴史の中で、最後の3年だけ。

12年以上の間は予科練も
水兵同様「セーラー服」が当たり前でした。

変更直後に入隊した乙19期の方などは
喜ぶよりまず戸惑ったそうです。
水兵服を着ていた人達はやっぱり
この変更に大満足だったようです。

ただ着用期間は短いのですが、全予科練生の数で見たら
七つボタンを着た人の数が圧倒的に多いです。
戦争末期になる程、予科練生が大幅増員されたのは前記事の通りです。

ということは、
飛行兵なのに水兵服での写真も撮っている方は、飛行機の搭乗経験があり戦歴の長いベテランの可能性もあるということ。
空で戦死なさった方もおられるかもしれません。
水兵服を着たのは、乙18期、甲10期、丙13期(14?)までになります。

以降の「全期間七つボタン組」は、
予科練を卒業するころには飛行機不足に陥ってしまっていたので、
一部の中間練習機或いは回天や震洋の搭乗任務以外は、
後輩や予備学生の教員、本土決戦準備にあたりました。

予科練教育中止となった七ツボタン組はさらに多く、
末期になると空襲激化で、
銃撃を避けるためにカーキ色の国防色に染め、白や黒の目立つ七つボタンは殆ど着ていられませんでした。
そうして基地の整備や、肉弾特攻の訓練に追われながら終戦を迎えられたのです。

若鷲の歌もたった3年で、歌ったらイヤな顔をされてしまうような歌となってしまいました。
だから尚更、予科練生にとっては切なく響く「青春の歌」なのです。



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