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随想好日 第十参話『慟哭、断腸の一年』

 初めて書くので興味を持っていただけた方はお付き合い頂ければ嬉しく存じます。少し長くなりますのでよろしくお願い申し上げます。
 筆者、食い扶持稼ぎの正業は三十数年にわたり観光畑でした。ここで観光という言葉は正直なところ使いたくないのですが、端的に申し上げるのであれば「観光」という言葉が誰のものであるのかと云う処に尽きるのでございます。本来旅人にとって、旅行を楽しむ者にとっての観光という概念であれば問題は感じられないのですが、長いことこの国の業界は観光を「観光客」としてセグメントし、観光という言葉、本来の光を観に行く旅という考え方を「事業者側」のものとしてきた経緯があります。

 国際社会における観光業と日本国内における観光業の違いは顕著であり、インバウンドと呼ばれる外国人観光客の60%以上は個人旅行、FITと呼ばれる人たちで占められています。
 本来日本の旅行形態もそうであることが自然の成り行きだったのですが、マスツーリズムという言葉が顕すように、団体型の観光集客偏重に飼い慣らされて来た市場は、本来のツーリズムという意味すら考えられなくなってしまいました。
 Tourismとは「Tour-ism」即ち、旅を通じて体験を可能とするアイデンティー、イデオロギー、ライフスタイルの実現を顕す言葉なのです。
 これをわたしは「最も簡便なる自己実現機会」と呼んでいます。

 分かりやすい例をここで紹介申し上げるなら、例えば信仰を持たれた旅行者がいらっしゃいます。イスラームの人々が分かりやすいでしょう。彼らは最低一日5回はお祈りを捧げることがアイデンティーの一つとして教義の中にも示されています。
 では彼らにとって"非日常"とは何なのでしょう。結論から申し上げれば「非日常」はあり得ないのです。【日常】即ち、生きることがアイデンティーであり、イデオロギーであり、ライフスタイルとして染みついているのです。信仰を守りながら日常をまもり、その中に許容されたコンテンツをプラスしながら旅を楽しむ。それが彼らにとって"許された"観光なのです。
これは極一部を切り取ったものであり、ページが許せばもっと書けるのですがほんらいの趣旨とはずれも生じるのでさきを急ぎます。
 また誤解の無いように申し添えれば「非日常」が悪いのではありません。何のルールも持つ必要のない私たちの様な立場の者であれば、非日常を楽しむことさえライフスタイルであり、アイデンティーとなりえることは見落とすべきではありませんね。

 筆者は日本ではお陰様で最も早くからこれら信仰を持たれた人々、様々なルールを持たれた人々をツーリストとして日本という国へ迎え入れるための取り組みをさせて頂いてきました。それも、これらの信仰をもたない、ルールを持たない側の人間として受け入れるためのコンテンツ作り、プラットフォームの制度設計、考え方などに取り組ませていただきました。

 国交省・観光庁をはじめとする国の機関の専門家をつとめさせて頂いたり、地方行政、地方観光行政や民間団体、公共団体のお手伝いを通じ、インバウンドを増やす取り組みをさせて頂きました。
 専門は■宗教・信仰から観たTourism。様々な食のルールとあるべきコンテンツの姿。様々な宿泊施設、様々なコンテンツ事業現場への集客支援とカスタマーサポート。

 例えば…… 先日、ヴィーガンに触れる原稿を書きましたが、一口にヴィーガン、ベジタリアンと云っても簡単ではないのです。普通に暮らしていると中々目に見えては来ません。
 しかし、オリエンタルベジやヴィーガンの場合この国においてさえ「宗教」と密接なかかわりがあることは覚えておいて損はないでしょう。
 たとえば『弥勒信仰』などが挙げられますね。また、ファスティングをはじめ発酵食品を摂取する傾向が強いベジタリアン市場にはキリスト教のプロテスタント系から派生したコンテンツも存在しています。
 実のところを書くと、日本にも宗教と信仰から派生した食のルールを持った人々は少なくは無いのです。

 残念ながら、このコロナ禍の三年は地獄でした。
 泣き言を申し上げるつもりはありませんが、10年以上やってきたインバウンド関連の取り組みがすべて水の泡。かかっていたはずの梯子はいつの間にか外され足の置き場もないしまつ。
 まぁ、それは良いのです。原則こういうことはポジティブに捉えるタイプですから…… 

 しかし、今年2022年04月23日
どうしてもポジティブに捉えることが出来ない事件が起こりました。
それが知床観光遊覧船水没事件です。
 わたしにとっては、断腸、慟哭、悲惨凄惨などというものではありませんでした。26名の乗員乗客を乗せた観光遊覧船が知床で沈没遭難。
いまだに行方不明者数名は安否不明のまま。

 わたしは5月から三カ月間、毎週供花をご遺体安置所の体育館に届けさせていただきました。お小遣いが続く限りと気持ちを届させて頂きました。

 あり得ないのです。観光、観光事業現場で人が死んではいけないのです。
まして事業者の身勝手な判断が起因して観光現場で人が死ぬなどは問題外なのです。
 どのような経緯で乗客たちが予約に至ったかは私の知る限りメディアからもリリースされていません。
 あの森繁久彌さんの「知床旅情」を鎮魂歌としてはいけなかった。
わたしにとってのこの一年はそこに尽きるのです。

今でも私の心は晴れません。
人を楽しませ、人に楽しんで頂くことが本文の観光という仕事でありサービス。人間の一時的な経営上の判断から人の命を第一に考えなかったために起きた事件。
 それでも人は行き、事業者は募集をし、集め送る。
云っても仕方のないことです。そういう時代なのですから。
であれば、せめて人だけは殺さないで欲しい。人間が死ぬことの無い本来の観光のあるべき姿を想い出してほしいと願わざるにはおれないのです。

次に控える新しい年が、旅をする者にとって最も簡便なる自己実現機会に通じることを願います。

文責 飛 鳥 世 一


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