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え~あたしゃ三度ほどやってみやしたがw

 一口に自死を選択すると云っても簡単なことではない。自死凡てを十把一絡げにすることは出来ない。心の病や不調を抱えておられる人たちや、誹謗中傷にさらされて疲弊しておられる人たち、人生に絶望を感じておられる人たち_それらはけして同じではないことが扱い方を難しくしていると感じられる。
 結論から書いてしまうようだが、世の中の一人一人が一人一人に声を掛けることが出来れば、少しは変われるのか。気付いた人が隣人に声を掛けることから始めるしかないのではないだろうか。命の電話を意味のない~などというつもりは無い。ただどうだろう、わたし達は常日頃からサインを見て見ぬふりはしていないだろうか。
 こんなnoteの中にすらサインは残されているようだ。スキを押して頂けたり、投稿のタイミングのズレでありルーティンの変化。長期のお休みであったり、コメント欄が荒れていたり等々。私のようなエンパス体質の者にとっては気になる糸口、気になる切り口がいたるところに見えてくるのである。
 言葉をかけようにもなんと掛ければよいのか分からないということもあるのかもしれない。まずは自分が掛けられて嬉しい言葉から始めてみては如何だろうか。
 せっかくだ。こんな小さなnoteというコミュニティーの中から若い命や美しい命が散ることの無い紡ぎから始めてみてはいかがだろう。苦しい人は苦しいと気兼ねなくSOSが出せると良いのかもしれないね。

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 さて何から書こうか。例えば幼少時代から少年時代、青年時代と書いてみたいという思いも無くはないが、その辺は小説作品へと落とし込みが終わったものを読んで頂くと読み手の都合も増幅させながら"楽しむ"こともできるはずなので、取っておきたい気持ちが育つ。

 綺麗ごとを書くつもりは無い。別に自死願望の強い人たちに向け、訳知り顔を見せられるほど気の利いた顔ではない。むしろ「あんたは良く生きてるねw」と云われるぐらいが関の山かと考えなくもないのだが、どうしたことか、これでも各方面からの愛がぽつりぽつりと届くゆえ、なんとか生きながらえているのである。
 それと私事だが、まだまだ読み続けたい作品たちやアーティストたちにも出会えた。憎まれっ子世に憚るを地で行くのもありと開き直っている部分もある。

何度か書いていることだが、その昔、吉行淳之介の小説やエセーの中の挿話として次のようなお話が顔を覗かせた。
「死にたい奴は死なせておけ。俺は今から朝飯だ」
もしくは
「死んだ奴は死なせておけ。俺は今から朝飯だ」
どちらであったかは定かではない_________。と、吉行本人も定かではなかった様子が伝えられている。

私の記憶が確かなら、吉行の短編「悪い夏」でも使われていたのではないだろうか________。大学の友人が夏に年上の女と自殺(無理心中)をし、その連絡をうけ共通の友人と葬式に行く。誰から聞いた話だったろう~くだんの一節が脳裏に去来する~という筋だったように記憶するのだが、あてにならない。
 しかし、吉行は小説の中でもエセーの中でもこの一節に関する注釈であり自分の受け取り方の表現を試みていないところがオモシロく感じられたものだ。考えさせられるのである。ただ申し上げれば、この一節に関わる当時の全ての人々が"おぼこい"のである。30年後に振り返ったとしたなら概ね「若気の至り」という言葉で片が付くだろう。成熟・熟成という時間軸は外せないだろう。が、若気の至りを書いてしまえば、小説とはならないのであり、吉行文学の「抜けられません」にはならないのである。

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わたしは十代から四十代までに三度ほど自死を試みたことがある。60の還暦を越えた今ではバカバカしいので「死んじまいたい」と思っても自死を選択することは無くなり、精々が、ご先祖様へと穏やかなお迎えを願うばかりとなったのだが、若いうちはお迎えなど望めよう筈もなく、この苦しい今にエンディングを迎えるためには自分で自分の命を摘むより他は無かろうと思ったものだ。

私が自死を選択する動機となったのは概ね『絶望』感が支配的だ。恐縮だが外的要因から自死を選択するなどというバカバカしい謙虚さは無い。どこまで行っても傲慢であり自己中心的であり、どこまで行っても自分の力を崇拝、崇敬するタイプである。
「なぜ、こんなこともわからないのか」「何故こんなレベルなのか」「未だにこんなもんしか稼げないのか」「何故、卵は10個で売るのか。なぜ1ダース12コではないのか」
 自分ではどうすることもできない絶望感。考えても出口が見えないことに執着を見せ、鬱々とするのである。

自分が大好きであるからして、外的要因が与える影響は限定的なのだ。外的要因がどの様な性質のものであるわからぬほど"おぼこ"くは無いのである。
だってさ、外圧を掛けたりバイアスをかける人間のために生きてるわけじゃないのにさ、ネットの誹謗中傷に見られる「死ね」とか「死ねばいいのに」とか「消えろ」とかの言葉に「はいはいそうでございますか」って応える筋合いなど道理などどこにもない。 そういうことする人間に取り合うことも愚かしいわけよ。
だって、暇だからそういうことに時間を費やすわけでしょ? 例えばだ、誰かを呪って憎んでお金持ちになれるなら、わたしも真剣にやってみようと考えもするだろうが、そういうのはあまり聞いたことないのであるよ。

「言いたい奴には言わせておけ。俺は今から晩飯だ」ははぁ~なるほどこうなるわけか(笑)

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概ね面倒になるのだろう。
いまを生きる人たちが自死を選択する場合、その大半は放棄したくなるのではないだろうか。生きることを。自死を理路整然風にまとめ上げ、死ぬことが出来たのは昔の文人だけだろう。今の人は概ねリセットであり、不条理感でありから来るメンドクサイへと行き着くのかもしれない。

メンドクセエヨナぁ~、ご飯も食べなきゃだし、汗をかいたらシャワーもいる。老後も考えなきゃだし、体も弱りゃ目も見えなくなる。頼みの親は当てにはならず、頼みの子供は引き籠り。生きるってめんどくせぇなぁ。
卵は高いし、パンも高い。電気料金気にしながらパートナーの顔色窺いながらエアコンの温度設定する毎日なんて話も聞く。なんでこんなにメンドクサイ世の中になっちまったんだろうね。死にたくなるわなぁ。
あんただけじゃないよ💛



お友達のちゃりちゃんも今朝書いていたので参考にしてね。

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