第二戦略:教えに最適な瞬間を認識する


人生とは学びの機会です。何歳になろうとも、何か出来事が起こり、そこで悩んだり迷ったりした時は特に美徳を磨くための機会と捉えるのです。
「教え」とありますが、言い換えると「学び」です。
その物事はどんな美徳を教えようとしているのか、どんな美徳を学ぶことができるのか、それを認識することで美徳はさらに育まれていきます。
注意されたり、叱られたりすることは誰しもが嫌だと思うことがあるでしょう。喜んで注意やお叱りを受けに行く人はなかなかいないと思います。
なぜ、嫌なのでしょう?おそらく、「出来事」ではなく、「人格」を否定されていると感じてしまうからではないでしょうか。
できないこと、失敗したことを責められる時、「なんでこんなこともできないんだ。お前はダメだな」などの言葉は人格へのレッテル貼りになります。そういうつもりがなくても、言い方によっては人格を否定されていると感じるから傷つくのです。
では、本当は人格否定などされてなく、その出来事に対してのみの叱責だとしたら?
機嫌や氣分というのはその人のものですから、実際相手がどれだけ不機嫌であっても、それはあなたのものではありません。
その上で、その人は不機嫌になってまで、あなたに教えようとしていた美徳は何かを考えてみるのです。
この美徳を考える機会を持てたなら、あとは「美徳の修正」をすれば良いのです。
言われて傷ついた言葉、最悪だったこと、あちこちに学びの機会は転がっています。「これはどんな美徳を意識したら良かったのだろう?」「どんな美徳が行き過ぎてしまったかな?」
また学びを得たあと、「この美徳を意識したら、うまくいった」なども学びの実践となっていきますね。
次回は、美徳が行き過ぎるということについてお話していきます。
感謝を込めて

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