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人の話を「要する」問題と向き合う

私は取材のためのテープ起こしに向き合う時、常に「えいやっ」と心で気合を入れないと向き合えない癖がある。

なぜかというと、「凹む」のだ。とにかく。

まず自分の声があまり好きではなかった。最近、自分で多少改善の努力をしようとしているので、意識的に向き合うようにしているのだけれど、以前は自分の声を聞くことが苦痛で仕方なかった。

さらに、これは小さい頃から青年期を経て現在まで治っていないのだけれど、「要するに、〇〇ですよね?」と、なんでもかんでも自分なりに要約しようとしてしまう癖がある。

この癖のせいで何度家族を怒らせ、せっかく話そうとしている人の出鼻を挫き、友人を沈黙させて来たか。この悪い癖を指摘して下さった方々が、何人か私の人生にはいる。本当に感謝している。自覚し、反省もしているのだが、ともすると、その悪い癖が、頭をもたげる。

ライターとしてお仕事をいただけるようになってから、私は「話し手の意図」を掴むためにテープ起こしと向き合うようになった。取材テープを聞きなおして文章に落とすということは、そういうふうに「要するにそういうことですよね」と勝手に要してしまう自分と向き合うことでもある。そのたんびに、「あー、また治ってない・・・」と凹むことになるわけで。

(実をいうと、通訳は、「要してもいい」特異な商売だった。むしろ、ウィスパリングの時なんかは、逐語訳なんてしていたら話すスピードに追いつかないので、「的確に要する」ことが推奨されていると言ってもいい。その点では楽だった)

「要する」ことは、人の話を聴かないで自分の結論を相手に押し付けることだ。録音テープを聴くと、私という人間が、いかに人の話を聞いていないかが白日の元に明らかになる。そんなわけで、テープを起こす(自分が人に質問をしている録音を聞く)ということは、必要な作業であるにもかかわらず、いつも「よっしゃ、やるぞ」という一種の気合、内心の掛け声を必要とすることだった。

最近、それがそうでもなくなってきた。そこまで自分の声を聞くことに苦痛を感じなくなってきたし、ひっくり返りたくなるような後悔の念に苛まれるようなこともなくなった。平常心で向き合えるようになった、というべきか。

実際の会話において、自分をモニターして、なるべく口を挟まずに相手の考えを聞けるようになった、ということかもしれない。私は、前ほど相手の発言を「要さなく」なってきた。

それは、年をとって、多少は謙虚になった、ということかもしれない。自分という人間が分かっていることなど、氷山の一角ですらない。多分、大きな氷山の上にある氷の結晶一つ分ぐらいしかない。そんな自分が氷山を語ることなどできない。そういう認識がやっと朧げながら身についてきた。

「自分の世界の中に入ってくるものは、自分なりに要約して定義しておかないと不安だ」という無意識と折り合いをつけることができるようになった、ということなのかもしれない。言い換えるなら、少しだけ不安が和らいだ。「自分は自分のままでいいのだ」という安心がある、ということなのだろう。

少しは成長しているんだろうか。それならば良いのだけれど。しかし、逆に、理解力も落ちているような気がする。そんなふうに成長したり退化したりして年をへる生命体である自分が、なんだかちょっと愛おしいと思える。自分だけではない、周りにいるすべての人々が、日々成長したり退化したりぶつかったり凹んだりしながら暮らしている。それを、尊いと思うようになったということなのかもしれない。

それでも、テープ起こしには「えいやっ」という気合がいることは確かだ。文章を書くのに、私にとっては必要な作業なのだけれど。

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