日本は外人として生きるにはすごく難しいところだ - ジョン・ネイスン(John Nathan)の本

最近、読み終わった本。「日本に45年間位も過ごしたが、友達と呼べる人は誰も作れなかった」と高尾山で一人で嘆きながら悲しく終わる本。これはニューヨーク育ちのユダヤ系アメリカ人、ジョン・ネイスン(John Nathan)の本。彼の三島由紀夫の翻訳は有名だ。大江健三郎の本がノーベル賞を取ったのも彼の翻訳の良さが手助けしていると言われている。しかし、これは人生の失敗を語る本。「ジョン・ネイスンは自分の人生に起きた数多いの失敗をユーモラスで洞察に満ちた描き方で語っている」と本のカバーでジャーナリストでニューヨーク・タイムスの編集者のイアン・ブルマが書いている。


本の最後に、なぜ自分が45年間も日本の文化とかかわったのが分からなくなっている。次々と人間関係が彼には理解できないところで崩れてしまう。彼の日本語は、僕の日本語よりも何倍も上手い。東大で日本古典文学の修士号を全員日本人のコースで取っている。日本文化の知識も深い。しかし、どんなに日本に近づいても、最後まで「外人」だった。こうした文化のずれは今でもある。むしろ、今の方が若き世代が海外のポップスや映画に興味がないからより多くなっているかもしれない。1980年代から90年代に日本で過ごしていたジョン・ゾーンとは、こうした文化的なトラブルについてよく話し合った。他にも日本で過ごしてたイギリス人とも同じ文化の違いから来るトラブルについて話し合った。また、あるダンサーの友人で、国際結婚をした人の知人達は一人残らず文化的なずれで離婚に終わっていたと僕に語ってくれた人がいた。


彼のせいの場合もはっきりと分かる。ジョン・ネイスンは子供の頃に数回会ったことがあるが、あまり良い印象ではなかったことを思い出す。ネイスンについて印象が良くなかったのは、「サマー・ソルジャー」という勅使河原宏監督の映画が作られている最中からコラボレーションが上手く行っていない話しを勅使河原宏さんから聞いていたのも一つの理由。ネイスンは映画界に脚本作家、そして後には監督として入りたかった。「サマー・ソルジャー」は、彼にとって最初の体験で映画世界の未経験者にもかかわらず、監督の描きたい世界をちゃんと聞き入れていない。自分の脚本が自分の意思通りに進まないことにいらいらした態度を示して、うまくいかないことを全て監督のせいにしてしまう。勅使河原宏はまだ安部公募の影響を受けていると一方的に決め付けてしまう。ネイスンは安部公房と違うと自分で言ってしまっている。(勅使河原宏と安部公房は4作のコラボレーションを監督と台本作家として作っていて、特に2作品は世界的な名作だ。)


彼は1960年頃に、ハーバード大学で日本語を学び、東京にロッカフェロー財団の助成金で来る。当時、「外人」はちやほらされた。小田まゆみという芸大で美術を勉強している学生と出会う。小田まゆみの家族はニューヨークで育った者にとっては、本当は理解しにくいエキゾティックな家庭環境であったように描かれる。父親は戦争中に海軍兵学校で日本史を教えていた。終戦日に彼の同僚だった海軍士官達は全員がハラキリ(切腹)で自殺してしまった。戦後、必死に家族を食べさせるために職を探して生きてきた。彼はホッド運びの職人をやったり、仕事がない時は着物を米を買うために売った。さつま芋しか食べるものがなかった時もあった。親しい家族で、人間関係が伝統的な日本的な家族のように描かれている。


そして、日本人の画家小田まゆみと結婚する。彼が小田まゆみの家族と住みだすと、トラブルも起きてくる。ある時、小田まゆみの祖母がネコをつかんで外に投げているところを見て、「私があなたのことを好きでないとしても、首をつかんで外に投げたりはしないよ」と言ってしまう。たぶん、これはユーモアを交えて語っていると思うが、こう言ったことは家族中で問題になる。外人だからということで許される。


日本ではスペースが限られているために、お互いがぶつからないように生活するための文化があることに彼は気が付く。これが全ての人間関係に影響を与えている。日本の「和」文化はここから来ているかもしれない。また、個人と集まる時の関係がニューヨークとはだいぶ違う。米を植える村文化が主体にあったからかもしれない。表面的には、みんなが西洋的な生活をしているつもりなので、こうした違いはほとんどの日本人に理解されていない。
僕は三島由紀夫の本はネイスンの翻訳で知った。しかし、ネイスンは三島由紀夫とある日、次の小説も翻訳するという約束を破ったと言われて、人間関係が崩れてしまう。先に小江健三郎の本を翻訳していた。勝 新太郎のドキュメント映画を監督する。終わって試写会で彼に見せると勝 新太郎は「自分はこうした人間に見えていると思わなかった」と言う。ネイスンは、これをほめ言葉として聞いてしまう。彼が勝新太郎の素直な姿を見せることに成功できたと思い込む。しかし、ドナルド・リチーから勝 新太郎は本当は怒っていたことが後で分かる。


こうしたことは役者、作家や芸術界の人達だけではなく、ソニーの会社員とも後に起きてくる。仕事を頼まれて、彼は頑張ってやっているつもりだが、見えていなかったずれで人間関係が終わってしまう。


ドナルド・リチー、イアン・ブルマとこの本を書いたジョン・ネイスンは日本の文化、特に戦後の文学と映画を最も世界に紹介したアメリカとヨーロッパから来た人たちだ。ドナルド・リチーについては、Ayuoはよく書いていることはご存知だと思う。ドナルド・リチーは自分は日本ではアウトサイダーだと割り切って、生きていた。80年間位の人生の内60年間も日本に住むことが出来たのは、日本を非常に客観的に見ながら生きていたからだ。僕の日本映画と日本の文化についての知識と見方の大部分はドナルド・リチーの本から来ていた。それはニューヨークで学校に行っていた頃、唯一のガイドだった。
ジョン・ネイスンは安部公房のことを英語圏の人たちに紹介する時に、「安部公房は満州というNo Man's Landで育っていて、20代になってから初めて日本に来た。いくら満州は日本の傀儡国であっても、外から来た人だと感じていたに違いない」と言っている。しかし、ネイスン自信が日本に長年過ごしてしまったままのアウトサイダー(外人)だった。彼はドナルド・リチーとは違って、自分は日本社会のアウトサイダーだと認めることができなく、日本人と同じになろうとしている姿が1960年代にあった。1960年代の日本は僕にとって知らない世界だ。当時、僕はニューヨークにいた。ネイスンやリチーの本を読むと、僕が思っていた以上に日本の60年代はアメリカに比べると変わっていた文化だと思う。表面的にしか似ていなかった。


ネイスンは家族を養うために1970年頃に、アメリカのプリンストン大学で日本文学と日本文化を教えることになる。大学で教えるにはPHDが必要だが、それも何とか手に入れる。しかし、妻との距離のみぞがより深くなってしまう。妻はだんだんスピリチュアルな世界に行ってしまう。妻は普段は主婦だが、この頃から女神の絵を中心に描き出す。そして、スピリチュアルな勉強を続けるためにカリフォルニアに子供たちと引っ越すと言い始める。ネイスンはなぜ結婚生活がうまくいかなくなったのかが分からない。2000年代に、彼が小田まゆみと結婚したホテルの部屋を探しに行って、その時に聴いた雅楽の笙の音を思い出しながら、なぜ彼女との結婚がうまくいかなかったのか、彼はホテルの誰もいない部屋を眺めながら考え込んでしまう。


日本は外人として生きるにはすごく難しいところだ。それをほとんどの日本人は分かっていない。誰も説明しない風習や人間関係の決まりごとが多い。外国で育った人にとっては本を読んで学ぶしかない。ネイスンが起こしてしまう人間関係のトラブルと似ていることを自分も経験している。ネイスンの場合は「外人だからしょうがない」といういい訳ができる。僕のように日本人の顔をしていて、筋肉が日本人のもののためになまりが少なく話していると、相手は分からなくなる。こうしたトラブルの元は育った文化環境が元にあるため、修正することはかなり難しい。日本文化で育っている人たちは、未だに鎖国している文化だということが自分達で分かっていないのではないかと思ってしまう。お互いが理解しえない状態になると関係を切るしかなくなってしまう。多くの日本人は自分達だけが正しいという見方を最後まで主張するので話し合いができなくなる。そのような文化になっているのだろう。あるいは話しの仕方が別なのかもしれない。それは文化の比較研究をしないと分からない。


僕も「外人」達と同じような経験をしている。日本人達は自分たちのやり方だけが正しいと常に主張しているように見える。国際的にも海外のニュースを見れば、そうのような態度が傲慢に見えていることが分かると思う。同じニュースを日本語で書かれている記事と英語で書かれている記事を見ても違う。2年前に、日韓関係が悪化した時に、Al Jazeeraというニュース・チャンネルで、韓国人のジャーナリスト、アメリカの経済学者との座談会を見せていた。日本の安倍 総理代表の人間の英語があまりにもヘタで、ゴリラがほえているように僕には聞こえた。これでも政府代表の人間だろうか、と思うほどヘタな英語の人だった。韓国は英語会話できる人の数は日本よりもはるかに多く、それがKPOP、韓流映画やドラマの国際的な人気にもつながzつていると思う。言葉とその後ろにある文化のまた、日本は表面的にはアメリカや西欧の影響を受けているように見えるが、これは表面的に過ぎない。言葉とその後ろにある文化の違いが見えていないまま世界を見ていることが多い。多くのアジアの国と違って、植民地になっていないので深いところでは海外の文化を理解していない。


ネイスンはアメリカに引っ越して生活費を稼ぐために大学で教え始めている間に、妻に何かの変化が起きたのに違いない。カリフォルニアに一緒に引っ越すが、家族と別居すると共に彼が本当にやりたかった仕事 - 映画界で仕事をすることを探し求める。映画台本を書いたり、彼が日本で撮ったドキュメントをコッポラ等に見せるが中々仕事が手に入らない。ビジネスの教則映像を作る会社をビジネス・パートナーと始める。これが最初、成功する。日本でやった仕事には頼らず、カリフォルニアのユダヤ人のコミュニティに入ろうとする。ユダヤ人が住むエリアに引越し、ユダヤ人の伝統的な結婚式でユダヤ人と結婚する。しかし、ユダヤ人からなぜ父親からユダヤ人の伝統的な儀式の言葉が分からないのだなどとしかられる。


大江健三郎がノーベル賞を取ったことがきっかけに日本の文化と文学を紹介するのが仕事の中心に戻ってしまう。ビジネスの厳しいアメリカの社会ではビジネスの教則映像を作る会社も失敗で終わってしまう。そして、かつての日本のつながりから大学で日本の文化と文学を教える仕事を得ることができる。武満徹、三島由紀夫と戦後の日本のアイデンティティ・クライシスなど思いつくトピックでレクチャーをすることを始めた。


この本は文化のずれについて考えさせられる本だ。どんなに本や知識で、日本文化を勉強しても、理解が出来ないところで人間関係が終わってしまうのが描かれている。また、アメリカのユダヤ人のコミュニティーに戻ろうとしても、そこでも知らない知識が多く、そこでも入れない。こうした人生を送った人は多くいる。僕もニューヨーク育ちなので、同じ経験をしたり、書かれていることが理解できる。僕の2年前の「アウトサイド・ソサエティ」も、これと共通のトピックを描いている。


同じ時代に日本にいたドナルド・リチーもアメリカには戻れなかった。しかし、彼は最後まで社会のアウトサイダーで生きることを決めたからやっていけた。僕も彼の書く文章には大きな影響を受けた。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?