1年企画)なぜ学習をしなくてはいけないのか。

 はじめましての人は、はじめまして、ご覧いただいている人は、毎度ありがとうございます。あゆみ将棋塾の塾長です。
 今日は、将棋の話をしたいから、筆を執ったわけではありません。
 なぜ、学習しなくてはいけないのかを一年間じわじわと考えていく企画をしたいと思います。
 この問いは、僕のド直球の疑問でもあります。
 子ども達に分かるようにではなく、まず、自分が理解することを目標に、一年間書いていきたいと思います。
 では、早速ですがよろしくお願いいたします。

2024年6月17日(月)

学習者の役割とは何か?学習者でありたい僕の願い

 いきなり、何故学習をしなくてはいけないのかを考えると、間口が広くなりやすいので、ひとまず、学習者とは何かということについて考えます。このテーマの方が、分かりやすいし、問が立てやすいからです。
 ここで、一つテクニックを使うとすると、学習していない人というものを想像します。学習をしていない人は、なんとなくですが、社会を渡っていけないイメージを持っています。ここで言う学習とは、学校の勉強とは別物であることは留意しておく必要があります。どちらかというと、倫理的な学習です。
 人間としての学習です。人として、あるべき姿を目指す。人としてやってはいけないこと。社会のルールを守りつつ、社会に善きものをもたらすこと。これが、あゆみ将棋塾が目指す成熟した人間像です。しかし、世を見渡すに、社会のルールは破られがちです。それも把握しつつ、少しずつ是正をしていく他ない。これが僕の認識です。
 理想としては、あるべき姿があるかもしれない。
 でも、実践的には、少しずつやっていく他ない。
 この落差を埋めるものが、学習だと、僕は考えます。
 学習者というのは、そう言った意味合いで、実践者でもあるわけです。
 実践を伴わない学習、これを基礎学習と名付けます。僕はこの基礎学習が応用実践の要であり、学習の急所だと考えます。
 基礎学習は、時間がかかります。人間の輪の中で、何をすべきか。社会的なコードや規範がある中、その制約の中で限られたリソースを源に、その共同体に何等かの善きものを産み出す。これが基礎学習と応用実践のコラボレーションです。鶏と卵というように、どちらが先かは分かりませんが、一度、そのサイクルが回り始めると、自律的な稼働が始まります。
 ただ、このサイクルの初動は、学習者のサポートが必要だと考えます。

 僕はそう言った意味合いで、学習者でありたいと願います。
 学を志した子ども達が、学びたいと思った時、初動のドミノを倒す素振りをしたいと思っています。実際に最初のピースを倒せるのは、子どもたち自身に他ならないのですが、その併走をしたい。それが、僕の願いです。

2024年6月18日(火)

学習する前と後ででは、世界の見え方が違う

 では、一体学習するとは何でしょうか?
 僕は、以下のように思います。
 
 学習する前と後ででは、見える世界の色彩が全く違って見えること。
 その時、人は学習する経験を積んだという事だと考えます。

 僕の場合は、高校生の時分に大きなターニングポイントが訪れました。

 所謂一般的な受験勉強は得意ではなかったので、予備校に通うと蕁麻疹が出てしまう性質でした。
 なので、図書館に行き、本を読むという作業を通じて、遠回りな受験対策をしました。その際、ああ、学習というものは、学校だけにとどまらず、自由にあるべきだったんだ、と気づきを得たのです。

 それからというもの、色々な書物を読み、体調が悪いときに読むと、染み入ってくる本があることを学び、好きな文体や語り口があることを学びました。小さい小さい積み重ねを通じて、今の自分があると思います。

 皆頑張っているんだ。そういったことから学びを得たりする。
 それが、些細な学習かもしれないですが、人生の方向性を決める重要なものだと思うんです。
 

2024年6月20日(木)

手を読むことが分からない

 手を読むということを将棋では練習する。
 しかし、手を読むという意味がよく分からない時期があった。というより、告白すると、今でも分かっていない。
 読むとは一体何を指す言葉なのか、何を指している言葉なのか?何をすれば、手を読むということになるのか。僕には分からなかった。
 手を読むと言っても、相手の心を推しはかることも必要なのかとも思った。けれど、よく分からないまま、今までやってこれてしまった。これは悪い兆候である。

 実力が上位に行けば行くほど、ここの手を読むという行動が勝敗に直結してくる。まぐれで勝てることはあるかもしれないけれど、それでは、トップクラスでは戦えない。

 アマチュアトップクラスでも戦えないということは、プロの世界では手も足も出ないのであろう。そうに違いない。
 しかし、どうしたら、この手を読むことができるのか、私には分からなかった。それゆえ、手あたり次第に、色々な文献を読み込んできた。それでもやはり手を読むことが良く分からなかった。今でも分からないのだ。

 なぜ、分からないのかという問いにも考えを巡らせたい。
 手を読むというのは、手を予想することではない。
 手を読むというのは、手を読むことである。
 相手の心の動きも皮膚感覚に読み取ることである。
 どういう差し回しをしてくるか。理論上どのような手を指してくるのか。それを考える。
 もちろん、その手を選んでくるのには、理由があるはずだ。でも、僕は、よく分からなかった。やっぱり分からない。
 
 手を読むことについての理解は、これから、考えていくことにしよう。


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