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奥州平泉に行ってきたよ②~夢の跡感~


泰衡蓮

平泉駅からタクシーで中尊寺下でおろしてもらい、しばらく歩くと本当にさりげなく泰衡蓮が出てきました。

藤原氏四代目の泰衡は身内同士で裏切り裏切られ、源頼朝ともジリジリとした駆け引きの末に討たれるというドロドロを生きた武将です。斬首の後、その生首は鎌倉に運ばれ、眉間に五寸釘を打たれ柱に掛けられました。カレンダーか!

「中尊寺ハス」とは、別名「泰衡蓮」という古代ハスのことです。昭和25年(1950年)の金色堂発掘調査の際、四代泰衡の首桶から約100粒の蓮の種が見つかりました。当時の蓮の権威として知られた大賀一郎博士にその種の一部が託され、大賀博士の門弟によって発芽、開花の成功に至ります。ハスは「中尊寺ハス」と命名され、中尊寺の池に植えられたのです。

ひらいずみナビより

泰衡は無残な首だけ(※眉間の五寸釘の穴に加え、耳と鼻も削がれた状態)の姿となって平泉に帰ります。泰衡の首は中尊寺金色堂の藤原氏三代のミイラ遺体の横に安置されていました。
しかしその首桶に記されているのは弟の名「忠衡」。でも中に入っている首はめっちゃ眉間に五寸釘の穴があるので、泰衡の首と認定されたそうですが、これ、うっかり間違えて「忠衡」と書いたのでしょうか。そんなの間違える??
いろいろ妄想して、もしかして泰衡の首は実は忠衡の首で、実は泰衡は忠衡と入れ替わった?!とか考えちゃいますが。
多分、平泉は邸宅も宝も燃やし尽くされて、残った女子供は悲しみと混乱の極みだったでしょうから、首も間違っちゃったんでしょうかね。
「眉間に五寸釘の穴がある方が泰衡だよ~」
という情報もうまく伝わってなくて、しかもちょっと腐ってたりして「これは忠衡?かな」と間違ったのかもしれません。
その首桶を埋葬したウッカリさんは、100粒ほどの蓮の種を入れたそうです。焼野原で生き残った近親者たちが、蓮の種を拾い集めて首桶に入れたんでしょう。
その人々の想いや泰衡の怨念が、800年後に蓮の花として咲いて蘇えった。ドロドロの泥土から、時を越えて、古代の蓮が咲くのってロマンティックですよね。ホラー映画のラストシーンとしてできすぎています。

野っぱら感が強すぎる泰衡蓮

金色堂

そんな血で血を洗うスプラッタな藤原氏。その藤原三代が眠っている金色堂というのは、私の想像としてはGOLDをふんだんに使った、ちょい成金趣味的なキンキラキンのお堂でした。が、実際に見てみると、金そのものより螺鈿細工の細やかさ、デザインの繊細さがとても際立っていました。

中尊寺のホームページより

マチズモ鎌倉を素通りして、優美な京都の影響の方がはるかに強そうです。工芸的なつくりこみがすごい。あとなんというかデザインにガーリーさを感じる。特に私が気に入ったのは上からぶら下がっているサンキャッチャーみたいなキラキラです。

中尊寺宝物館 讃衡蔵

中尊寺のお宝が眠る讃衡蔵(さんこうぞう←読めない)こちらも面白かったです。
好きなグロポイントとして、泰衡の首桶や秀衡ミイラが頭を横たえていた枕なんかもしっかり展示されてたりします。
また、非グロな好きポイントは、ここの仏像たちがどことなくカワイイ。仏像の光背が花びら大き目の大胆お花柄になってたり、獅子に乗った仏像がいてその獅子がペット的な愛嬌があったりします。

そもそも建物全体を金箔で金にしちゃおうってアイデア自体が、かなりクレイジー。
金閣寺よりも200年も前、しかも時の権力者ではない北の果ての一武将が。
埋葬方法をミイラにしちゃおうって考えも独特すぎるし。
その頃の平泉というのは栄華を極め京都の影響をうけつつ
独自文化を築く特区みたいな感じだったのかなぁ。
返還前の香港みたいな感じ?

こういう建築や工芸の意趣は慈覚大師

以上、独りコードでした。

その他中尊寺のなかにあったもの。

目目目目目!思わず目のお守りを買いました。


芭蕉の目の下のだるだるに長旅の疲れを感じるよ

毛越寺

中尊寺を出てタクシー移動をし毛越寺に行きました。が、暑いなか中尊寺のアップダウンを歩いたし、あんまり見ないで手前の茶屋でかき氷を食べて帰りました。

ずんだかきかき氷、おいしい


当時のお堂は全部燃えちゃって、今は遺構しか残ってません。本当に夢の跡。一人が「ゴルフ場みたい」と口にしたのを聞いた後は、ゴルフ場にしか見えなくなってしまいました。

池と木がゴルフ場感強め

これで一日目の観光は終わり!

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